明治維新の折、六所神社が式内佐久佐神社であるとして、当局に対して相当強カに働きかけたが、結局認められなかつた。六所神社は、国府の総社であつたとは考えられる。 現在の六所神社は国庁政庁のま上に建っているので、本来は別の場所にあったはずで、ここから100mほど東の小社「丁明神(ちょうのみょうじん)」が本来の社地ではないかとの説もある。 |
由緒 御当社はもと佐久佐の社といい「延喜式」(延長2年927)の神名帳にも「出雲風土記」(天平5年733)にも記載されている由緒の古い神社である。出雲風土記の載っている意宇郡大草郷(今の松江市大庭町、佐草町、大草町、八束郡八雲村)内の神社は八社で、当社の外の七社は熊野大社を始め皆八雲村内の神社である。これらの神社は、千二百数十年前から御鎮座になっていたことは、風土記に載っていることでも明らかだが、御創建の年代は、それよりはるかに古くて知るべくもない。大化改新(大化2年646)によって氏族政治が廃止され、諸国には国庁(今の県庁にあたる役所)が置かれ、中央政府から派遣された国司によって、戸籍、班田、徴税、国防その他一般の政治が行われるようになったが、その頃から当社は出雲の総社となり、一層重きをなす様になった。総社とは、国内の総べての神社を代表する神社の意である。延喜10年、国庁の官人への宣(命令)に「国中の政は神事を先となす、専ら如在の厳典をいたし、すべからく部内の豊穰を期すべし」と見える様に、一国の政治は神事を第一にすべき旨示されている。したがって国司が任国の命をうけてその国へ行けば、神社に参拝し政道の基をたてるのが例となっていた。又、国内の神社に国から奉る幣帛を班つ班幣式も、出雲国内の神主を当社に集め、国司が属僚を率い、神祇官に準じて行い、その他祈願等も当社で行われていた。後代、佐久佐社は、総社佐久佐社、総社六所社と併称される様になった。総社で六所社と称される様になった神社は、武蔵国総社六所社(今は大国魂神社と改称)を始め全国27社に及んでいる(梅田義彦博士の調査による)「六社縁起」に「大草郷六所大名神は出雲の総社にして、雲陽第二の名社なり」とあり、朝廷を始め国守、領主、守護等の崇敬も厚く、旧暦3月5日(現4月15日)の御田饌祭には勅使の御参向があったが、観応元年(1350)2月、熊野大納言に勅代の宣旨があってからは、熊野大納言が代参して祭事を行ったことが古文書に見え、その行列図、儀式等を書いた壁画(県文化財指定)を蔵している。又、庁宣をもって数多の田地を寄せられたので、鎌倉期にあっては、灯油田、八朔幣料田、御神楽田等四町一反余りの神領が将軍や守護等の保護をうけていた。大草地頭の代官が、一時当社の社領を横領したことがあり、源為朝将軍が厳重な下知を下して地頭代官の横暴を禁じたことが北島国造家の文書にみえている。戦国時代となっては戦乱の影響をうけ、多少の変動は免れなかったが、毛利元就が出雲を領するに及び、富田城督毛利元棟は、当社の祭事を復興し、かつ社領を旧に復して国家平安の誠を捧げ、吉川元春は鳥居、神馬を寄進して報賽の誠を捧げている。松平家になってからも、当社に対する崇敬と保護には変わるところがなかった。当社の造営、修復等は、王朝時代にあっては国費をもってせられたことは申すまでもなく、鎌倉期になってからも幕府は造営料として出雲三刀屋郷、乃白郷等の年貢を寄進して工を竣えている。天文11年(1542)大内義隆当地へ侵入の時兵災にかかり、社殿等を失ったが、尼子家が造立した。松平家となってからも、造営等すべて藩の御作事方が直接工事にあたっており、遷宮祭等重要な祭儀には国守の代参があり、又出雲国造が参向する例になっている。大正14年県社に御昇格せられた時は、島根県知事を始め松平家、千家、北島両国造等御参向のもとに盛大な報告祭に併せ例祭が斎行された。出雲の豪族である国造が此の地に住み、熊野大神(今の熊野大社)に奉仕し、出雲国内の祭政一切の権を握っていたことを見ても、出雲風土記にゆう、この大草郷は、文化、経済、交通等の中心地として栄えていたことであろうし、そうした環境の地であったが故に、出雲の政治の中心となる国庁や郡家(郡役所)もここに置かれたのであろう。熊野大神に奉仕していた国造(千家、北島の祖)が、いつごろ、この地から杵築へ移住したかは明らかでないが、千家尊統前出雲大社宮司は、その著「出雲大社」で「いつ杵築へ移住したかについては国造家にもしかとした伝承はないが、解明の手がかりとなるものは「類聚三代格」巻7、郡司の条の太政官符で、慶雲3年(706)出雲国造は意宇郡大領を携帯して延暦17年(798)に及ぶとある。とするならば大領兼帯という政治的権威を失った平安初期に、意宇郡には、熊野大神を遥拝する神詞(神魂神社の前身)ならびに国造館を残して、大国主神御鎮座の杵築へ移住したものであろう」と述べている。当社は、意宇六社(熊野大社、真名井社、揖夜社、六所社、八重垣社、神魂社)の一の宮であり、古くから六所さんとも称され崇敬されている。この意宇六社を巡拝する六社まいりと称する行事は古く明治以前から続いている。陰暦十月出雲へお集りになる全国の神々は、先ず当社へお集まりになってから佐太神社へおいでになる旨佐太社の記録にもあり、当社では18日に神在祭が行われていたが明治初期から絶えている。当社の神紋「有」もそうした意味をあらわしている。陰暦10月は神無月とゆうが、出雲では神有月といっている。これは十月は全国の神々が出雲にお集まりになるので、出雲以外の国には神様がいられないとの信仰にもとずくものであり、この神々のお集まりになる十月の二字を組みあわせると有の字になるので当社の神紋にしたものであろう。当社に参拝された清水真三郎出雲大社権宮司は「国司袖うちはへてまつりけむかみの斎庭のおもほゆるかな」と詠じられた。今、社頭に立って、色とりどりの衣冠束帯に身をととのえた国司等が、長い装束の袖をうちはえつつ、心をこめてお祭りしたであろう天平の昔におもひをいたすとき、うたた感無量である。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
六所神社 出雲総社 六所神社 大祭日 御田饌祭 4月15日 例祭 10月15日 新嘗祭 12月11日 御祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命 素佐之男命 天照皇大神 月夜見命 大己貴命 御当社はもと佐久佐社といい『延喜式』(延長2年927)の神名帳にも『出雲風土記』(天平5年733)にも記載されている由緒の古い神社である。出雲風土記に載っている意宇郡大草郷内の神社は八社で、当社の外の七社は熊野大社を始め皆八雲村内の神社である。これらの神社は、千二百数十年前から御鎮座になっていたことは、風土記に載っていることでも明らかだが、御創建の年代は、それよりはるかに古くて知るべくもない。 大化の改新(大化2年646)によつて氏族政治が廃止され、諸国には国庁が置かれ、中央政府から派遣された国司によって、戸籍・班田・徴税・国防その他一般の政治が行われる様になったが、その頃から当社は出雲の総社となり、一層重きをなす様になった。 総社とは、国内の総べての神社を代表する神社の意である。 延喜10年、国庁の官人への宣(命全に「国中の政は神事を先となす、専ら如在の厳典をいたし、すべからく部内の豊穣を期すべし」と見える様に、一国の政治は神事を第一にすべき旨示されている。したがって国司が任国の命をうけてその国へ行けば、神社に参拝し政道の基をたてるのが例となっていた。 又、国内の神社に国から奉る幣吊を班つ班幣式も、出雲国内の神主を当社に集め、国司が属僚を率い、神紙官に準じて行い、その他祈願等も当社で行われていた。 後代、佐久佐社は、総社佐久佐社、総社六所社と併称される様になった。総社で六所社と称される様になった神社は、武蔵国総社六所社(今は大国魂神社と改称)を始め全国で27社に及んでいる(梅田義彦博士の調査による) 『六社縁起』に「大草郷六所大明神は出雲の総社にして、雲陽第二の名社なり」とあり、朝廷を始め国守、領主、守護等の崇敬も厚く、旧暦3月5日(現4月15日の御田饌祭には勅使の御参向があったが、観応元年(1350)2月、熊野大納言に勅代の宣旨があってからは、熊野大納言が代参して祭事を行ったことが古文書に見え、その行列図、儀式等を書いた壁画(県文化財指定)を蔵している。 又、庁宣をもって数多の田地を寄せられたので、鎌倉期にあっては、灯油田、八朔幣料田、御神楽田等四町一反余りの神領が将軍や守護等の保護をうけていた。大草地頭の代官が、一時当社の社領を横領したことがあり、源為朝将軍が厳重な下知を下して地頭代官の横暴を禁じたことが北島国造家の文書にみえている。 、戦国時代となっては戦乱の影響をうけ、多少の変動は免れなかったが、毛利元就が出雲を領するに及び、富田城督毛利元棟は、当社の祭事を復興し、且つ社領を旧に復して国家平安の誠を捧げ、吉川元春は鳥居、神馬を寄進して報饗の誠を捧げている。 松平家となってからも、当社に対する崇敬と保護には変るところがなかった。当社の造営、修覆等は、王朝時代にあっては国費をもってせられた事は申すまでもなく、鎌倉期になってからも幕府は造営料として出雲三刀屋郷、乃白郷等の年貢を寄進して工を竣えている。 天文11年(1542)大内義隆当地へ進入の時兵災にかかり、社殿等を失ったが、尼子家が造立した。 松平家となってからも、造営等すべて藩の御作事方が直接工事にあたっており、遷宮祭等重要な祭儀には国守の代参があり、又出雲国造が参向する例になっている。 大正14年県社に御昇格せられた時は、島根県知事を始め松平家、千家北島両国造等御参向のもとに盛大な奉告祭に併せ例祭が斎行された。 出雲の豪族である国造が此の地に住み、熊野大神(今の熊野大社)に奉仕し、出雲国内の祭政一切の権を握っていたことを見ても、出雲風土記にゆう、この大草郷は、文化・経済・交通等の中心地として栄えていたことであろうし、そうした環境の地であったが故に、出雲の政治の中.心となる国庁や郡家(郡役所)もここに置かれたのであろう。 熊野大神に奉仕していた国造(千家北島の祖)が、いつごろ、この地から杵築へ移住したかは明らかでないが、千家尊統前出雲大社宮司は、その著『出雲大社』で「いつ杵築へ移住したかについては国造家にもしかとした伝承はないが、解明の手がかりとなるものは『類聚三代格』巻七、郡司の条の太政官符で、慶雲3年(706)出雲国造は意宇郡大領を兼帯して延暦17年(798)に及ぶとある。とするならば大領兼帯という政治的権威を失った平安初期に、意宇郡には、熊野大神を遥拝する神詞(神魂神社の前身)ならびに国造館を残して、大国主神御鎮座の杵築へ移住したものだろう」と延べている。 当社は意宇六社(熊野大社・真名井社・揖夜社・六所社・八重垣社・神魂社)の一の宮であり、古くから六社さんとも称され崇敬されている。この意宇六社を巡拝する六社まいりと称する行事は古く明治以前から続いている。 陰暦10月出雲へお集りになる全国の神々は、先ず当社へお集りになってから佐太神社へおいでになる旨佐太社の記録にもあり、当社では18日に神在祭が行われていたが明治初期から絶えている。 当社の神紋もそうした意味をあらわしている。陰暦10月は神無月とゆうが、出雲では神有月といっている。これは10月は全国の神々が出雲にお集りになるので、出雲以外の国には神さまがいられないとの信仰にもとずくものであり、この神々のお集りになる10月の二字を組みあわせると有の字になるので当社の神紋にしたものであろう。 当社に参拝された清水真三郎出雲大社権宮司は 国司袖うちはへてまつりけむ かみの斎庭のおもほゆるかな と詠じられた 今、社頭に立って、色とりどりの衣冠束帯に身をととのえた国司等が、長い装束の袖をうちはえつつ、心をこめてお祭りしたであろう天平の昔におもひをいたすとき、うたた感無量である。 神社附近の史蹟其の他 出雲国庁跡 当社の境内を含む隣接地にあり、昭和43年より三ヶ年計画で発掘調査の結果、その遺構が明らかとなり、条理制の遺構と共に国の史蹟に指定せられ、八雲立つ風土記の丘の拠点として、宏大な遺構の復原工事の竣工もま近い。 上代出雲玉造り遺跡当社を中心とする地は、上代の玉造りの遺蹟で、今尚、玉磨砥石、碧緑岩、水晶、瑞璃等の原石、破片が発見される。当社には、前記の国庁の建物の柱根と共に、軒丸瓦、玉磨砥石、碧緑岩の紡垂石、玉その他多数の出土品を蔵している。これは出雲国から朝廷に奉られる玉等を作ったり、都人の需めに応ずる為、国府内に多くの玉作部が移住していたことを示すものである。 大正14年京都帝国大学(現京大)考古学教室の浜田耕作博士を長として、梅原末治、島田貞彦外写真部の人等が来社され、玉作遺蹟並に遺物を調査され、、昭和2年その研究報告書『出雲上代玉作遺物の研究』が刊行され、同大学文学部から寄贈をうけた。 出雲国分寺跡当社の東北一、四粁の地にあり、大正10年3月3日国の史蹟に指定され、復原工事も竣えて礎石等整然とならび、国分寺の全貌を知ることが出来る。 古墳当社附近には数も知れない程の多数の古墳があり、中でも、安部谷古墳(昭和9-5-1)鶏塚古墳(大正13-12-9)二子塚古墳(全上)は古く国の史蹟として指定され、岡田山古墳、古天神古墳、御碕山古墳、岩屋後古墳、岩船古墳、東百塚、西百塚両古墳群を始め多くの古墳が史蹟として指定され、八雲立つ風土記の丘の一環として整備せられている。 当社に蔵する岡田山古墳出土品は考古学上の貴重品として文化財に指定されている。 八雲立つ風土記の丘センター 当社の西方一、二粁の大草町有にある。国の指定史蹟岡田山古墳に続く四四、七〇〇平方米の地内に、展望台付資料館を中心に、古墳時代の住居、中世豪族の館跡、風土記植物園等があり、展望台からは、国庁跡、条理制遺蹟を含む意宇平野一帯が展望される。 昭和49年6月六所神社宮司吉岡清衛誌 社頭掲示板 |
六所神社 国府総社 この神社は国府の総社と呼ばれ、古文書にもしばしば登場します。総社とは国司が出雲国内の神々を合せ祭るなど、国内の神社を統括する機能を持っていました。 当時は国庁の隣接地にあったと考えられていますが、平安時代以降に国府が衰退していくと、神社はかつての中心地に移転し、この地区の氏神として信仰され現代に至っています。 社頭掲示板 |