深日小学校の南、里山と呼ぶ丘の西端、岬状の台地の上に鎮座する。 称徳天皇が天平神護元年(765)9月に、大和・河内・和泉に行宮を造営させた、その「深日行宮」は当社の地とする。 当地深日庄は、堀河天皇の寛治4年(1090)より後柏原天皇の大永年間まで、京都の賀茂神社領であつたので、浜山の加茂神社が繁盛したが、当社は衰微していた。 |
由緒 国玉神社は第六十代醍醐天皇の御代に成った延喜式内社であり、創立年月は旧記になく詳でありません。国内神名帳に正五位下国玉神社としてあります。境内三、〇四五坪を有し千歳川岸の丘麓にあり昔は樹木欝蒼として深日港を望む遠くは淡路島及摂淡連峯を望み明治6年、郷社に列記され明治41年、神饌幣帛料供進社に指定せられ明治45年5月、若宮の浜山に祭祀されてありました村社賀茂神社の御祭神を相殿とし、末社でありました、八幡社、若宮八幡、戎社の三社を元国玉神社の本殿に相殿として祭祀してあります。現在の本殿は元賀茂神社の本殿を遷座してあり梁行四間桁行三間の銅葺流造にして氏子地は深日孝子一円にわたっております。拝殿上の「大国玉神」の木の額は旧深日村の古事に依れば門厳の書であります。深日庄は第七十三代堀河天皇寛治4年より第一〇四代後柏原天皇大永年間まで京都賀茂神社の領知で元賀茂神社の隆昌繁栄に反して国玉神社は次第に衰徴し徳川時代に至っても隆昌をする事無く明治維新まで明中十五軒にて山林等を資にして祭祀・保存しておりましたものです。当下たん地にあります。現旧蹟跡の碑は第四十八代称徳天皇の紀州行幸の際行宮として定め給ひし処であり、続日本紀に 「天平神護元年9月(閏)10月26日庚戌遺行宮於大和河内和泉等国以欲幸紀伊甲申致和泉国日根郡深日(フケ谷朱)行宮干時西方暗瞑異常風雨紀伊国守小野朝臣小贄従此而還詔賜アシギヌ卅疋綿弐百屯」と記されてあり、「第六十五代花山天皇の行幸の際須臾寓宮として定め給ひし」と記されてあります。 又末社は元は小祠でありましたが、永年の風雨の為破損甚だしく神々の御神慮を恐れ、昭和40年7月10日、境内東南側に銅葺流造の社殿に遷座祭祀せしもので、当神社は称徳天皇行宮より現在まで一千二百余年の年月を経ております。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
国玉神社略記 当神社は大国主大神、加茂別雷大神を祭祀し、延喜式内社にて創立年月は詳ではなく、第46代称徳天皇行宮より約1200余年を経て昔は綾三十施綿二百屯を賜り氏子地は深日全域孝子一円の氏神として鎮座、氏子の吉凶禍福を主宰給う御守護神であります。 社頭掲示板 |
国玉神社 ▼大阪府泉南郡岬町深日。旧郷社。大国魂大神・加茂別雷大神を祀る。創祀は社伝によると醍醐天皇の御世と伝え、延喜の制小社に列し祈年の官幣に預かり、『国内神名帳』に「正五位下国玉神社」とみえる。 古くは九頭大明神とも称された。明治45年(1912)浜山の加茂神社の祭神を合祀し、加茂神社の本殿を遷して、当社の本殿とした。例祭10月3日。 神社辞典 |
郷社 國玉神社 祭神 国魂神 創祀の年代詳ならす、醍醐天皇延喜の制小杜に列す、日根郡十座の一なり(延喜式)、猶國内神名帳に、正五位下國玉神社とあれば、何時の頃か叙位の事ありきと覚ゆ、明治6年郷社に定まる、金幣を御神体とす、境内916坪(官有地第一種)にして、外に上地林五反二歩を編入せらる、社殿は本殿、拝殿を備ふ、社地高燥にして千年の老松森々として鬱茂す、当深日村は聖武天皇、孝謙天皇の行宮ありし地にして、其旧跡今猶存す、又花山院法王御行脚の時、当地に杖を止め給ひし事ありと、此地の海岸を深日浦といふ、白砂青松画くが如く、細波洋々として其本を洗ひ、西には淡路の翠らんを望み、北には播摂の碧峰を仰き、海岸には奇岩怪石突兀として起伏し冠石島帽子岩の名あり、古より歌枕として詞人の吟詠甚だ多し、 「時つ風吹飯の濱にいで居つ、あがふ命は妹が為こそ(萬葉集) 寛平の御時菊合和泉ふけひの浦の菊 「けにけにと霜おきまさる冬はただ花うつらふと浦みゆくらん(夫木集) 「月清み千鳥啼くなりおきつ風ふけひの浦の明方の空」(皇大皇后大夫俊成) 「さよ千島ふけひの浦に音つれて絵島か磯に月傾きぬ」(藤原家基) 「越波に吾が世吹飯のうらみ家て打寝る夢も此頃ぞ見る」、(権中納言定家)」 明治神社誌料 |
國玉神社 國玉は久爾多麻と訓べし○祭神大國玉神、(泉州志、式社考、)○下庄深日村に在す、(泉州志、和泉志、式社考、) 類社 尾張國海部郡國玉神社 神位 國内神名帳云、正五位下國玉社、 神社覈録 |