第二阪和国道の北の住宅地の中に鎮座している。 この地は楠氏の臣勝間氏が市杵島神社を祀ったところ。 加支多神社はもともと貝田町3233番地に鎮座していたと伝えられる。 現在地の南東300mに「貝田会館」がある。ここを貝田王子の跡とする説もあり、熊野古道沿いであり、加支多神社の旧址とする説もある。(参考:北緯34度25分25秒,東経135度20分37秒) 市杵島神社は明治42年7月12日字貝田の村社「加支多神社」(品陀別命)を合祀して社名を加支多神社と称した。 |
由緒 加支多神社は東南後藤堂にあり、もと市杵島神社と称し、市梓島姫命を祀れり。 勝間家の傳ふる所によれば、徃時楠氏の臣勝間某なるもの、敗軍の際祭神を負ふて、此の地に来たり、豪家新川氏の宅を訪ふて奉祀せんことを乞ひければ、新川氏其の手続をなし、国司に出願して奉祀せしものなりと。勝間氏の子孫は今も本地に居住せり。 明治5年、村社に列し、同42年7月12日、貝田の村社加支多神社(品陀別命)を合祀して今の社名に改め、同時に同字の村社熊城八幡神社(品陀別命)・無挌社熊城八幡神社(品陀別命)・字鶴原の村社大宮八幡神社(誉田別命)・字新家の同八幡神社(品陀別命)字浜田の同浜之神社(事代主命)・字布の無挌社八幡神社(誉田別命)・字古屋敷の同曽我神社を合祀し、大正4年4月神饌幣帛料供進社に指定せらる。境内は505坪を有し、本殿、拝殿、社務所を存す。 氏子は本村全部にして例祭は10月9日なり。 氏子地域、鶴原・鶴原東(布)・貝田・新家。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
加支多神社 泉佐野市鶴原に御鎮座まします加支多八幡神社は、八世紀に定められた延喜式の神名帳に、和泉国六十二座の中の一座として記載されている式内社であります。 御神徳 誉田別命は応神天皇の御神名で『八幡さま』と通称されています。神功皇后が新羅を御遠征中、その胎内にあって全軍の指揮采配をおとりになったのです。後の応神天皇であります。 二年間皇后の胎内におられて、お健やかに御誕生なさいました。従って、『安産の神様』『子授けの神様』『智恵の神』として古来『文武の神』『弓矢八幡』さまと称えられ崇敬されています。 市杵島姫命は、天照大御神、建速須佐男之命の二柱の神さまが高天原で誓約をなされた時にお生まれになった女神です。 又の御名は狭依比売命と申されます。高天原の最高神、天照大御神にお仕えした女神です。 『婦人の芸事』『婦人の作法』の神様、『音楽の守護神』でもあります。 又、『船の寄る所を敷きませる神』、又海上を支配され、諸国の幸をもたらし、交易を守護し、人々に福徳をもたらす、『海上交易の神』『福徳の神』として、『いつくしまひめ』とも、『弁財天』とも称えられ、広く崇敬されています。 天児屋根命は、高天原の神々の祭祀を司る天神です。神代の昔、天照大御神が天の岩戸におかくれになった時、その御出座をお願いして祭祀を行い、天津祝詞の太祝詞を言寿ぎ白し、八咫鏡をさし出してその御出座を賜りました。又、天孫の天津日子穂能邇々芸命が降臨なさる時に供奉した御伴緒の中でも先達をなさった神様で、古来『祈祷の神』『祓清の神』『諸願を最高神にお伝えする神』とされています。 由緒書 |
加支田神社 加支田は假字也○祭神詳ならず〇近義郷王子村貝田森に在す、(和泉志、式社考)今八幡と称す、(泉州志、式社考、) 類社 播磨國賀茂郡垣田神社 神位 國内神名帳云、從四位下垣田社、 神社覈録 |