海岸より1.2kmほど内陸、男里川北岸雄信小学校の南東に鎮座する。 二座の一座は当社一座は摂社浜の宮に比定されている。。もとは浜の宮に祀られていたが海に近すぎるので現地に社殿を作り神武天皇を分祀と伝う。 現在地に遷座したのは、貞観元年(859)3月とされている。 神宮寺が二寺あり、境内の一寺は古義眞言派の法蓮寺、今一寺は新義眞言派の光平寺であるが、明治初年の神仏分離で前者は廃寺となり、光平寺は残つた。 男神社の社叢は大阪府緑の百選に指定されており、見事な森で、多種類の古木の中には府内最大といわれているむくろじ(無患子)の木もある。 |
由緒 元府社男神社は大阪府泉南郡泉南町男里即ち古への呼の郷の地ある。 延喜式内神社で、本殿には、彦五瀬命・神日本磐余彦命、を祀り、相殿には天児屋根命・熊野速玉神を祀る。 境内15,000平方メートル(5000坪余)。老樹欝蒼として幽すい絶塵の神域をなしている。その北一キロ余の処に摂社浜宮がある。本社の元宮で、境内9,000平方メートル(3,000坪)松樹茂って海風に鳴っている聖蹟雄水門は即ち此地である。 神武天皇御東遷のみぎり、皇軍孔舎かの坂で長髄彦と御激戦した。此時、皇兄彦五瀬命が賊の流矢に中って御肱脛にきずを負はせられ「吾は日神の御子として、日に向ひて戦ふこと良はず、故れやっこが痛手をなも負ひつる。今よりはも行き廻りて日を背負ひてこそ撃ちてめ。」と仰せられた。よって皇軍は血沼の海即ち今の大阪湾を南進し紀伊に向わせられよとして紀元前3年5月8日(太陽暦6月20日)此地に御着き給うたが、彦五瀬の御傷いよいよ重らせられた。命は御悩みの中にも剣の柄を堅く握られ「慨哉、大丈夫にして被傷於虜手、報いずして死なむや。」と雄たけび給うたよって此地を雄水門といふ。 命はやがて竃山に神去り給うたが、その「日を背負ひてこそ」と仰せられたことは、皇軍の作戦上重大な御意義を有つもので、また、「慨哉」と雄詰び給うたことは、皇軍の士気を鼓舞せられたことであろう。かねてより神武天皇の点業かい弘を輔翼し奉り、また皇軍の進撃中不滅の御勲功を立てさせているのである。即ち彦五瀬命雄詰の御遺蹟雄水門、今の浜宮の地に、命と神武天皇の御神霊を祀奉ったのが、当社で社伝によれば貞観元年3月今の地に御遷座し奉ったといふ。毎年10月11日の例祭には本社より聖蹟雄水門の地神輿渡御の儀が行われる昭和7年11月 畏き辺より幣帛料を下賜せられ給うた。まことに畏き極みである。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
男神社 元府社男神社は大阪府泉南市男里即ち古への呼唹郷の地である延喜式内神社で、本殿には彦五瀬命、神日本磐命彦命を祀り、相殿には天児屋根命、熊野速玉神を祀る。境内一万五千平方メートル(五千坪余)老樹欝蒼として幽邃絶塵の神域をなしている。その北方一キロ余の処に攝社浜宮がある。本社の元宮で境内九千平方メートル(3000坪)松樹茂って海風に鳴っている。聖蹟雄水門は即ち此の地である。神武天皇御東遷の砌孔舎御坂で長髄彦と激戦した。此時、皇兄彦五瀬命が賊の流矢に中って肱脛に瘡を負はせられ「吾は日神の御子として日に向ひて戦ふこと良はず、故れ賤奴が痛手をなも負ひつる、今よりはも行き廻りて日を背負ひてこそ撃ちてめ」と仰せられた。よって血沼の海即ち今の大阪湾を南進し紀伊に向わせられよとして、紀元前3年5月8日(太陽暦6月20日)此の地に着き給ふたが、彦五瀬の御瘡いよいよ重らせられた命は劒の柄を堅く握られ「慨哉大丈夫にして被傷於虜手報いずして死なむや」と雄詰び給ふた。よって此の地を雄水門といふ。 即ち彦五瀬命、雄詰の遺蹟雄水門、今の浜宮の地に、命と神武天皇の御神霊を祀ったのが当地で社伝によれば貞観元年3月、今の地に御遷座し奉ったという毎年10月11日の例祭には本社より聖蹟雄水門の地神輿渡御の儀が行はれる。明治7年7月、畏き辺りより幣帛料を下賜せら給ふた。 社頭掲示板 |
男神社 古事記によれば、当社は神武天皇が天業恢弘の御途次、畏くも矢瘡を負わせ給うた皇兄彦五瀬命が、男々しくも男建ひ給うた男水門に斎祀られた由緒深い神社であります。 皇紀2645年1月吉辰 社頭石碑 |
男神社 男(おの)神社は延喜式神名帳に「男神社二座」と見え、1座は当社、1座は当社北方に鎮座する摂社浜の宮(浜の天神)に比定される。当社は元は浜の宮に祀られていたが、海に近く風浪に侵されるので、859年(貞観元年)現在地に社殿を建て、神武天皇を合祀したという。この浜の宮は神武天皇東征の時、流れ矢で負傷した彦五瀬命が傷の痛みに絶えかねて雄たけびしたという雄水門(おのみなと)の旧跡とされている。 当社に対する公武の崇敬は厚く、1464年(寛正5年)には後土御門天皇の奉幣があり、文明年間(1469〜87年)には足利義政が社殿を修理、1638年(寛永15年)には後水尾上皇が奉幣、1651年(慶安4年)には徳川氏が社殿を修補している。 『泉州志』には当社を『男森大明神 八幡天神春日』とあり、江戸時代前期、八幡神が合祀されていたことがあり、阪南市の波太神社も八幡宮と称し、当社と本社・分社の関係にあったと伝えている。 社頭掲示板 |
府社 男神社 祭神 彦五瀬命 神倭磐余彦命 熊野速玉命 天児屋根命 祭神に関して諸説あり、和泉志によれば祭神二座、一座は神武天皇之を男森明神と称し、一座は彦五瀬命之を濱天神と称すといひ、社記の傳によれぱ、大山咋神と玉依姫の二座とし、神名帳考証には五十瓊敷入彦命と比売神の二座とし、神祇宝典によれば伊弊諾尊を祀とせり、当地は彦五瀬命、登美毘古が流矢に中つて、雄号して薨し給ひし所なれば、男里と称す(泉州志)といへば、神武天皇と共に命を祀りたりといへば是なるものゝ如し、創建は清和天皇貞観元年にかゝるといふ(社記)、醍醐天皇延喜の制二座共に小杜に預る延喜式)爾来皇室及將軍の崇敬甚厚く、後土御門天皇文明6年足利義政使を遣して社殿を修理し、後光明天皇慶安4年徳川氏亦修覆を加へ、光格天皇寛政8年淀城主耕田七丁を寄せ、明治に至り社殿再建の事あり、時の縣令税所篤は工費を進納せり、明治6年郷社に列す、境内2570坪(官有地第一種)、社殿は本殿、拝殿、其他神輿舎、社務所、宝庫等の建物を備へ、老檜、古松鬱蒼として茂り、頗る幽邃の趣に富む。 古事記に、故其国より上行ます時に、難波之渡を経て、青雲之白肩津に泊てたまひき、此時登美能那賀須泥毘古、軍を興して待向へて戦ひしかば、御船に入れたる楯を取りて下立たまひき、故其處の号を楯津と謂ひけるを、今に日下の蓼津となもいふ。於是、登美毘古と戦ひたまふ時に、五瀬命御手に登美毘古か痛矢串を負しき、故爾に詔りたまはく、吾は日神の御子にして日に向ひて戦ふこと不良、故、■奴か痛手をなも負ひつる、今よりはも行廻りて、日を背負ひてこそ撃ちてめと期りたまひて、南の方より廻幸ます時に、血沼海に至りて其御手の血を洗ひたまひき、故血沼海とは謂ふなり、其処より廻幸まして、紀国男之水門に至りまして詔りたまはく、賎奴か手を負ひてや、死ぎなむと男建して崩れましぬ、云云、 男の水門は即ち当社の地なりと。 明治神社誌料 |
男神社二座 男は唹と訓べし、和名鈔、(郷名部)呼唹、○祭神分明ならず、(和泉志云、一座神武天皇、今称男森明神、一座彦五瀬命、今称浜天神、」今按此説是か、社記、大山咋神、玉依姫、考証、五十瓊敷入彦命、比売神、と云り、いつれが決めがたし、)○信達庄男里村に在す○日本紀、神武天皇戊午年5月丙寅朔癸酉、軍至茅淳山城水門、(亦名山井水門)時五瀬命矢瘡痛甚、乃撫劒而雄詰之曰、因號其処曰雄水門、(古事記、紀国といふは一説也、)○総國風土記第廿九残欠云、日根郡男神神社、圭田三十七束三字田、所祭伊弊諾尊也、崇峻天皇3年庚戌8月、初加神禮奉圭田、有神家巫戸祝部禰宜等、 泉州志云、男名起于五瀬命、男郷混雑于螂境不分明者多矣、今唯余男里村、是亦不能独立、半附鳥取郷、半附信達庄、(和泉志云、呼唹郷、今信達及中通庄、)又云、男里濱松林中有小社曰天神社、是五瀬命洗矢瘡地即男水門也、今林外之海濱若干廣矣、或尾崎漁夫為洒網地、或男里牧童為放牛処、又云男森大明神(八幡天神春日)在男里東南、今称天神者五瀬命也、先所謂與男水門小社同神也、後世合祭八幡等、(此説に拠れば、浜天神は式内社にあらす、かつ男森社神武天皇といはず、さては和泉志の説も覚束なし、如何せむや、 神位 國内神名帳云、正五位下哀唹社前、 社頭掲示板 |