旧府神社
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   【延喜式神名帳】旧府神社 鍬 和泉国 和泉郡鎮座

   【現社名】旧府神社
   【住所】大阪府和泉市尾井町198
       北緯34度30分23秒,東経135度26分31秒
   【祭神】素盞嗚命
       『和泉国地誌』明治12年『神社明細帳』祭神不詳

   【例祭】
   【社格】旧村社
   【由緒】貞観元年(859)5月7日官社『三代実録』
       同年8月13日正五位下
       明治5年(1872)村社
       大正4年6月23信太森神社に合祀
       翌年ふたたび元の社殿に奉祀


   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】宮地
   【祭祀】江戸時代は「牛頭天王社」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿・手水舎

   【境内社】

信太小学校西近く、小川の東岸住宅地の中に鎮座する。
社名は何か古い行宮、離宮などの故地に神社が勧請されたからではないかと想定されている。
神功皇后の小竹宮の跡とも、和泉国府の所在地であり、国府はその後現在の府中町に遷したとも伝える。
大正4年6月23日葛之葉町の信太森葛之葉稲荷神社に合祠されたが、翌年に元の社殿に奉祀した。
現在同社の飛び地境内社とされている。


由緒

延喜式内の古社であるが創建年月は不詳である。
三代実録に「貞観元年(西暦859年平安時代)5月7日壬戌。和泉国旧府神列於官社。同8月13日丙申。和泉国無位旧府神授正五位下」とあり昭和45年(西暦1970年日本万国博覧会開催の年)が奇しくもそれより1111年に当たる。
大阪府全志に、社名と旧府は神功皇后の御し給ひし小竹宮のありし所なるより起り社は復た其の地に鎮座せるより社名に負はせんたるならん」と記されているが論者の言によればこの地ほもと和泉国府の所在地であったところその後現在の府中町に遷された為社名に旧府と名づけたと伝える説もある。
明治5年村社に列せられ、大正4年6月23三日葛之葉町の信太森葛之葉稲荷神社に合祠された。
翌年に至り故あって元の社殿に奉祀した。
古来疫病の神長寿繁栄の霊験あらたかな神として広く一般の信仰をあつめている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



式内 舊府神社参拝のしおり

大阪府和泉市尾井町二丁目3−41(大阪府和泉市尾井町198番地) 舊府神社奉賛会
 舊府神社 
一、 御祭神 武速素戔嗚大神(たけはやすさのおのおおかみ)
                (健康、長寿、繁栄信仰の神様)
平成17年の拝殿新築工事の際に発見された江戸時代の棟札には、墨書銘で「氏神牛頭天皇」とあり、「氏神」とは、尾井町(信田郷尾井村)の氏神様であることを意味し、「牛頭天皇」とは、印度の祇園精舎の守護神で、日本では素戔嗚神と習合し、京都祇園の八坂神社などと同様に、古くから当社における防疫の神様(人々の病気や災いを取り除く神様)としての信仰があったようですが、この度の貴重な棟札の発見は、それを実証したものともいえます。
二、 御由緒
 創立年代は不詳ですが、社号の「舊府(ふるふ)」の由来には、神功皇后の行宮所「小竹の宮(しののみや)」に由来するという説と、和泉国府が当社地から現府中町に移管した「新国府」に対して旧国府跡「旧府(旧府神社とも記す)」とする説があります。
 前者は、「日本書紀」巻第九、神功皇后摂政元年二月の記事にある「小竹宮」と「小竹の祝(しののはふり)」と「小竹(しの)」を、ここ「信太(しのだ)の旧表記が「小竹田(しのだ)」であることに関連させたと思われる説で、南の伯太神社、泉井上神社にも一連の皇后巡行に関する社殿がありますが、この「日本書紀」の記事では、「皇后南詣紀伊国」という文脈から「小竹宮」や「小竹の祝」は、実際には更に南下した和歌山県(日高地方は那賀郡志野など)とする説もあります。
 後者は、和泉国府跡地に対しての「旧府」とするよりも厳密には、奈良時代、霊亀2年(716)和泉国が成立する以前に、河内国の一部として和泉の監(げん)(大鳥郡、和泉郡、日根郡の三群の特別行政管理地域。
 もしくはその三郡管理に加え、元正天皇の離宮であった珍之宮(ちぬのみや)(和泉宮ともいい、同じ信太郷内の上町遺跡がその跡地といわれる)をも管理、警衛するための役所)が置かれ、現府中町御舘森(みたちもり)が、和泉監衙(いずみのげんが)(役所)跡地と推定されているので、府中町に移転するよりも以前の和泉監衙か、それに相当する役所の跡地としての「旧府」という意味があるものと思われます。
 一方で府中町の和泉監衙は、天平12年(742)和泉監(三郡)が再び河内国に吸収された際に一旦廃止され、天平宝字元年(757)今度は三郡が和泉国として河内国から分離成立後、かっての和泉監の運営役割をその場で和泉国府へと引き継がれたものと考えられます。
 どちらに致しましても、当社が創建当初より古代国家の「宮」や「府」として政治(まつりごと)を司る要所の鎮守社であること、少なくとも千数百年以上の歴史を有する小社であることを語るものであります。
 また後生の皇室や貴族が和泉国府や紀伊国、熊野詣でなどに赴く際、いわゆる信太の森(当社や葛葉稲荷社を含め、泉大津市北東部に広がっていた楠の森。泉北郡の歌枕ともなる)を縦貫、通過するための旧街道付近に位置することからも、氏子村のみならず、行き交う人々の崇敬も篤いものであったといえるでしょう。
 平安時代、官舎や延喜式内社に列格、神階正五位を授かっていた( 『三代実録 』 )ことは、その当社の広くあらたかな霊験を裏付けているものです。 旧社格は村社です。
三、境内末社
 若宮社「白狐化石」(しろぎつねばけいし)・・・御祭神は葛葉姫(くずのはひめ)。漁師に追われた白狐が逃れる  ために化けた(隠れた)石とされます。元々街道沿いにあったものを昭和22年境内にお祀りされました。

由緒書



旧府神社

旧府は音読也、(印本又フルフとも点ぜり)○祭神詳ならず○信太郷尾井村に在す、(和泉志、式社考、)
神位 官社
三代実録、貞観元年5月7日壬戊、和泉國旧府神、列於官社、同年8月13日丙申、授和泉國無位旧府神正五位下、○國内神名帳云、正五位下旧府社、

神社覈録






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