牛瀧川と深山川の合流点の南に鎮座する。 「積川」の称は、牛瀧川に深山川が流れ込む所であるため「つみかわ」と呼んだことから起り、社名もこれに由来する。 和泉五大社の一である。 境内には、樹齢800年とも伝えられる椋(むく)の木がそびえている。 神輿は慶長7年11月、豊臣秀頼の生母淀君の寄進と伝わっている。 |
由緒 当神社は第十代祟神天皇の御代にこの地に創立され、地名は前に牛滝川、後に深山川と高低相会する地に位するので積川の称があります。 延喜式内社で和泉五社に列し歴代天皇の勅願社として又武将の崇敬も厚く、天正の頃まで社領六百石を有していましたので格式のあった神社であることが想像されます。社域は府道牛滝街道に接して一段の高所を占め、二千五百坪の広さの境内を有し、古木森然とした中に本殿(三間社流造、屋根桧皮葺)があります。建築年代は詳らかではありませんが慶長7年、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として大修理を加えられ現在にその様式を伝える桃山建築の優雅広大なこと、特に高欄の彫物の色彩の鮮かなことは美の極地とされて、建築の大家をうならせています。 この本殿は大正3年4月に特別保護建造物(国宝)に指定されました。 社宝として神像(木像)は重文指定、淀君奉納の神輿(国宝申請中)楠正儀寄進の石灯篭、古鏡の他、寛治四年、白河上皇が熊野へ行幸の途、熊野街道から神社を遥拝され、芝草を積んで舞台をしつらえ、舞楽を奏されたとき、鳥居に掲げられた扁額の筆磧が拙いのをご覧になり、親しく筆を執られて「正一位積川大明神」の八字を大書され、これに代えられたと伝えられる有名な扁額があります。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
積川神社御由緒略記 鎮座 岸和田市積川町349 御祭神, 一、本社 生井神・栄井神・綱長井神 阿須波神・波比岐神 (共に井水、土地の守護神) 二、境内社 天神社 菅原道真公 八坂社 須佐乃男命 白髪社 猿田彦命 戎社 事代主命 当神杜は第十代崇神天皇の御代にこの地に創立され、地名は前に牛滝川、後ろに深山川と高低相会する地に位するので積川の祢があります。 延喜式内社で和泉五社に列し、歴代天皇の勅願社として、又、武将の崇敬も厚く、天正の頃まで社領六百石を有していましたので、格式の高い神社であることが想像されされます。社域は府道牛滝街道に接して一段の高所を占め、二五〇〇坪の広さの境内を有し、古木森然とした中に本殿(五間社流造・屋根檜皮葺)があります。建築年代は詳らかではありませんが、慶長七年、豊臣秀頼が片桐旦元を普請奉行として大修理を加えられ、現在にその様式を伝える桃山建築の優雅広大なこと、特に高欄の彫り物の鮮かなことは美の極致とされ、建築の大家をうならせています。 この本殿は大正3年4月に特別保護建造物(国宝)に指定されました。 社宝として神像(木造・重文指定)、淀君奉納の神輿(重文申請中)、楠正儀寄進の石灯籠、古鏡の他、寛治四年、白河上皇が熊野へ行幸の途、熊野街道から積川神杜を遥拝され、芝草を積んで舞台をしつらえ、舞楽を奏された時、鳥居に掲げられた扁顧の筆蹟が拙いのをご覧になり、親しく筆を執られて「正一位積川大明神」の八宇を大書され、これに代えられたと伝之られる有名な扁額があります。 額の地名の由来 積川神社の氏地は旧山直上村・山直下村・八木村・北掃守村の四ケ村(牛滝川に沿って磯之上まで)でした。 そこで遠方の氏子の人たちのために、中間点にあたる現在の鳥居のある場所から朝夕積川神社を遥拝して農作物の豊穣と家内安全を祈願しました。 又その地は熊野街道(現府道大阪和泉泉南線)にあるので熊野参詣をする皇族・公家の方々がこの地から勅願社である積川神社を遥拝され旅路の安全を祈願されました。 寛治四年白河上皇が熊野御幸の途、積川神社を遥拝された時「正一位積川大明神」の扁額を鳥居に掲げられました。この「額」と人々がこの地で「額づく(拝む)」という二つのことから、この地を額と名づけられました。 お神輿の渡御(おわたり) 積川神社の御旅所は昔は浜辺にありましたが、岸和田城主が入城されてから現在の鳥居のある遥拝所に移されました。 毎年神社の祭典がおわると神霊をお乗せした神輿が御旅所へ「おわたり」するのがならわしで、この時、遠方の氏子の人たちがその場所へ行って神霊におまいりします。このように神霊を安置する場所を御旅所といいます。 由緒書社頭掲示板 |
国宝積川神社御由緒略記 祭神 生井神 栄井神 綱長井神 阿須波神 波比岐神 当神社は崇神天皇の御代にこの地に創立され、地名は前に牛滝川、後に深山川の相会する処で積川の称がある。 延喜式内社で和泉五社に列し勅願社として調停の崇敬も厚く優遇され、格式が高い神社として有名。 2500坪の広大な境内の置くに檜皮葺の本殿(三間社流造)があり、慶長年間に豊臣秀頼が片桐且元に命じて大修理を加えられ現在に至る。その様式をは桃山建築の粋を極め優雅広大、特に高欄の彫物は鮮美依って大正3年特別保護建造物に指定さる。 社宝として白河上皇御宸筆の扁額神像は重文指定、その他淀君奉納の神輿、楠正義寄進之石灯篭、古鏡、子文書多数ある。 奉納1986年10月吉日 社頭石碑 |
【文化財】 国指定文化財 建造物 積川神社本殿 三間社流造正面千鳥破風付檜皮葺 府指定文化財 彫刻 木造 男女神像 府指定文化財 工芸品 積川神社 扁額 市指定文化財 天然記念物 積川神社の椋 |
積川神社 つかわじんじや 大阪府岸和田市積川町。旧郷社。祭神生井神・栄井神・綱長井神・阿須波神・波比岐神。『日本後紀』に貞観15年(873)従四位上に昇叙の記事がみえ、『延喜式神名帳』に登載され、また嵯峨天皐弘仁14年(823)7月4日の条に積川社に奉幣し祈雨願出のむね記されてある。当社々域は、牛滝街道に面し、牛滝川と深山川の合する勝地にあり、一万平方メートルの境内を有する。本殿は三間社流造屋根檜皮葺の壮麗な建造物で、その絵様、彫刻等に桃山時代の特色を発揮している。これは慶長7年(1602)豊臣秀頼が片桐旦元を普請奉行として修覆させたことによるもので、その時代の特徴をよく表わしている(重文)。社宝としては、白川上皇御筆の社号額「正一位積川大明神」と淀君奉納と伝えられる神輿、楠正儀寄進の正平7年銘石灯籠、重文指定の神像も社蔵している。例祭10月5日。 神社辞典 |
郷社 積川神社 祭神 生井神 福井神 綱長井神 阿須波神 波比祇神 創祀の年月詳ならす、一説祭神五座は彦火々出見尊、天照大日霊、豊王姫命、火酢芹命、火明命なりといふ(神社覈録所引社家説)、嵯峨天皇弘仁14年7月幣を奉りて雨を祈り(日本後紀)、仁明天皇承和9年10月无位より從五位下に進めたまふ、蓋し去る4月4日の御トに来年春夏の間疫氣あるべしといへば、災を未然に防がむとてなり(続日本後紀)、清和天皇貞観3年3月從五位下より從四位下に昇され、同15年4月從四位上を授け給ふ(三代実録)、醍醐天皇延喜の制小社に列し、祈年奉幣の外鍬一口を加へらる(延喜式)、近世に至り織田信長公御判物社領高六百石ありしを、豊臣秀吉公没収せらる、後陽成天皇慶長年間、豊臣秀頼公社殿を造営す、(社記)明治6年郷社に列す、境内1300坪(官有地第一種)、本殿、拝殿其他神輿庫、社務所等あり。 明治神社誌料 |
積川神社五座 鍬 積川は都美加波と訓べし〇祭神生井神、福井神、綱長井神、波比伎神、阿須波神、(考証所引用積川社記、然るに社家、今は彦火々出見尊、天照大日霊貴、豊玉姫命、火酢芹命、火明命五座也といふ、今從はず、)〇南郡山直郷積川村に在す、(泉州志、和泉志、式社考、)○今俗当國五社第四と称す、(式社考)〇永萬記云、積川社(櫛少々進) 神位 続日本後紀、承和9年10月己巳、奉授和泉國無位積川神從五位下、」三代實録、貞観6年3月23日己酉、授和泉國從五位上積川神從四位下、同15年4月5日己亥、授和泉國從四位下積川神從四位上、○國内神名帳云、正一位積川社前、 官幣 日本紀略、弘仁14年7月丙辰、奉和泉国積川社幣、以祈雨也、 神領 式社考云、信長公御判物神領六百石、秀吉公没収、 神社覈録 |