津田川の西岸、畑町集落の中央住宅地の中に鎮座する。 波多氏の祖神である武内宿祢および波多八代宿祢を祀つている。 里俗では「雷除の神」として崇敬され、神宮寺を「朝日山長光寺」といつた。 岸和田市内畑町の山直神社には合祀との社伝がある。 |
由緒 本地(大字畑)は古来南郡に属し、もと阿間河荘の内にして畑村と称す。畑は波多なり、波多氏に因あり。 波多氏は古事記孝元天皇の段に「建内宿禰之子波多八代宿禰者波多臣之祖也」と見ゆる波多氏是なり。 波多神社は西方字ユントにあり、波多八代宿禰を祀れり。波多氏の其の祖を祭りしものならん。延喜式内の旧社なれども由緒は詳ならず。明治5年村社に列せらる。 境内は20坪を有し、本殿、拝殿を在す。里俗は雷除の神として崇敬せり。氏地は本地一円にして旧祭日は10月1日なり。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
波多神社 起源は応神天皇の時代の前後、波多八代宿彌の父武内宿彌は大臣として大和朝廷の政治の中心にあり、子供が大和国の近隣を治めていたが、和泉国のこの畑に土着し、御祭神「波多八代宿彌」の波多神社を創建した。 波多神社にお祀りされている「波多八代宿彌」は、第八代孝元天皇の曾孫にあたる人物で、「古事記」、「日本書紀」に記載がみえる。聖徳太子が活躍した時代より200年位前に、大和朝廷明日香宮の政治の中心で、父武内宿彌と共に古代の日本国建設に活躍した武人である。 当波多神社の創建は何年か、古い神社のため不明である。 波多八代宿彌が「日本書紀」に、百済国へ応神3年(392)に遠征と記述されている。また延喜式神名帳(927)に「従五位上の官位」を持った神社と記載されているので、延喜の時代には、すでに長い神社歴があったものと思われ、創建は西暦400年位から600年位の間ではないかと思われる。 岸和田市役所観光課 |
波多神社 波多は假字也〇祭神詳ならず〇南郡阿間河庄畑村に在す、(和泉志、式社考、) 連胤云、当社は前なる失代村神社に相対へて、波多八代宿禰の由縁あらんと思ひしに、國帳波太岐、伊賀國阿拝郡波太岐神社もあれば、此帳落字ありて、かの八代宿根には狗はらざるや、猶考ふべし、 神位 國内神名帳云、南郡從五位上波太岐社、 神社覈録 |