牛滝川左岸に鎮座している。叢林がよく目立つ。 『古事記』仁徳記に「兔寸(トノキ)河の西に一つの高樹あり」と見える高樹の根元に鎮座していたとの話がある。現社地より200m西の宮山であったと言う。 祭神は楠の木の木霊であったが、船の用材にいいので船玉となったと言う。 本殿には「菅原神社・楠本神社」の額が掲げられていた。 |
楠本神社 楠本神社は包近村に鎮座の延喜式内社にして楠木大神菅原道真公を鎮座し奉る村社なり創立年月詳らかならずと雖も国内神名及その他諸史より考証するに古事記仁徳帝の段にこの御代兎寸河今の牛滝川の西方に一高樹有り、其の樹の影朝日に当たれば淡路島に及び夕日に当たれば高安山を越えきかし、是の樹を伐り船に作れるに甚く速く行く船にそ有ける。時に其の船の号を枯野とそ言いけるかし、其の船を以て朝夕に淡路島の寒水を汲みて大御水に献りきと有りて即ち当社の祭神楠本大神は其の大樹の伐りたる跡に大樹の威霊を祭祀せるものにして旧事記に楠本神社船王鳥之右楠船神又名言天鳥船神とも称え奉り神階従三位を賜り境内広大社殿壮麗にして七堂伽藍も建立し神威赫々遠近諸人の信仰浅からず天正年間に菅原大神をも相殿に祭祀して俗間之を天神と称え奉り霊験弥々顕著なりき。然るに後水尾天皇の慶長年間兎寸河いまの牛滝川数日の大水に殿宇並に七堂伽藍古書類計及付近家屋18戸男女32人流失して悉く荒野となる氏子包近の村民蜂屯蟻集社殿を改築し代々氏神と仰ぎつつ社僧の奉仕する所となれり明治元年社僧を廃して神職を置き明治5年村社に列し乃ち氏子の崇敬神社なり。 楠木神社由来 右国内神名帳 左大阪府全史記載文による 本地は古来南郡に属しもと山直郷の内にして包近村と称す楠本神社は北方字宮山に有り延喜式内の神社なれ共祭神詳らかならず後世菅原道真公を併祀せり俗に天神と称せらる。古老の伝説に依れば其の道真公を併祀したるは織田信長の時代なりしと且年詣道なる畑の中にはもと鳥居ありて包近の捨鳥居と呼び白河法皇の宸筆の額を掲げたりしに烈風暴雨の為牛滝川に吹き流され伊勢の白子里に上りて今も同所に存し其の額には白髪大明神と書せりと云う。旧祭神の詳ならざる為神名帳考証には船王神なりとし神社要録には古事記仁徳天皇の段に兎寸川之西有一高樹と見申る高樹は楠なるべく当社はその楠の本にあるて木霊を祀り摩湯村の淡路神社はその水霊ならんとし大日本史も亦之と同様の説を記している神位は国内神名帳に従三位とせり明治五年村社に列し大正4年12月21日字垣外の村社八幡宮品陀別命を合祀せらる同八幡宮は楠正成公の祈願所にして正成公の寄付したる武具菊水旗等は宝庫に納めありて慶長10年当社焼失の際には持ち出したるもその後兵火に罹らん事を恐れて河内の天野山に納めしと伝え社頭の楠は楠氏の家臣鴨野宇右衛門手植のものなりと境内315坪を有し本殿並に拝殿を存すとある 青木謹書 社頭掲示板 |
楠本神社 楠本は久須毛登と訓べし○祭神木霊歟、(考証に船玉といふ、今從はす、)○南郡山直郷包近村に在す、(和泉志、式社考、)今天神と称す、(式社考) 連胤按るに、当社と次なる淡路神社は共に由縁あらん、さるは古事記、(仁徳段)此御世、兎寸河之西、有一高樹、故切是樹以作船、故以是船、旦夕酌淡道島之塞泉、献大御水也、とあるを見れば、此高樹は決めて樟なるべく、さて当社は共楠の本にありて木ノ霊を祭り、淡路神社は其酌し水ノ霊にて、彼是と離れがたくそ思ひやられける、 類社 河内國志紀郡樟本神社の條見合すべし 神位 國内神名帳云、從三位楠本社前、 神社覈録 |