この地は波多氏の居住地で、当社はその祖神を祀つたものとされている。 継体天皇元年(西暦503年)鎮座とされている。 二座のうち一座は「一の宮」と称し現在地の大字八田字宮内にあつた。他の一座は「諏訪宮」「矢代寸下社」と称して、西北500mの大字神須屋字諏訪にあつた。 明治40年に諏訪社を一の宮に合祀した。 近世一時祭神不詳のため、元文2年(1736)8月、京都の吉田家に願い、「一宮牛頭天王」の神号の巻物を下附された。 岸和田藩主代替の際には、領内の各神社に拝礼するのが例であったが、後略して、当一の宮矢代寸神社のみに拝礼するようになった。 |
由緒 一ノ宮矢代寸神社略誌 当矢代寸神社は継体天皇元年の創立と傳えられ明治6年郷社に列せられる。延喜式内神社にて延喜式に矢代寸神社二座とあり一座は即ち本社にて一ノ宮と称し八田町にあり一座は諏訪宮と称し又矢代寸下神社と云う。明治40年12月、本社に合祀せらる。 主祭神は武内宿祢及波多八代宿祢にて当地は波多氏の居住地にしてとの祖神を祀っていたようである。又、当社は岸和田藩の一ノ宮にて藩主交代の際は藩下各社に参拝ありしも中古より略して当社のみ参拝あり現在町民皆当社を一の宮と呼称す。 國内神名帳には従五位屋代村社と載せ又当地は屋代村(矢代寸)と称したるが如し。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
矢代寸神社 当社は継体天皇元年創建と伝えられ、当地に居住した波多氏が租神を祀ったのが始まりとされている。 延喜式内社にして延喜式神名帳に矢代寸神社ニ座とある。一座は本社にして一ノ宮と称し、一座は諏訪宮また矢代寸下神社と称し神須屋町にあったが明治40年12月末社に合祀 寛治4年正月白河上皇熊野御幸の折当社に参拝。 江戸時代岸和田藩主代替の際領内の各神社に拝礼するのを例としていたが後に当社のみに拝礼するようになった。近世の一時期祭神不詳となり、元文2年8月京都吉田家に願い出て「一宮牛頭天王」の神号を賜る。明治6年郷社に列せられた。 社頭石碑 |
郷社 矢代寸神社 祭神 武内宿禰 波多八代宿禰 建内宿根の子、波多八代宿禰は波多臣の祖也と古事記に見えたり、年月詳ならざれども波多氏の人々此國に住ひしといへば、其等が其祖先を祀りしものにや、績日本紀に文武天皇の慶雲2年12月癸酉、從六位下波多朝臣廣麻呂從五位下、又聖武天皇の天平9年2月戊午、无位矢代王正五位下、又孝徳天皇の天平宝字2年12月丙午、毀從四位下矢代女王位記、とある矢代も、此地名より出たるなるべし、醍醐天皇延喜の制。式の小社に列せらる、和泉郡二十八座の内の二座なり、國内神名帳に南都從五位上屋代村社前とあり、明治5年郷社に定まる、境内1092坪(官有地第一種)社殿は、本殿、拝殿其他廊下、廊下前中門、神饌所、社務所、神輿舎、神具納屋等の建物を備へたり、因に記す、當村は物部守屋の臣鳥取部萬が住みし処なり(崇峻天皇紀参酌)といふ 明治神社誌料 |
矢代寸神社二座 矢代寸は夜之呂牟良と訓べし、(旧訓ヤシロキとあるは宜しからす)○祭神波多朝臣祖神歟、(式社考に、一座は天王、一座ば諏訪といふ、今從はす、)〇南郡阿間河庄八田村に在す、(和泉志、式社考、)○古事記、(孝元段)建内宿禰之子、神波多八代宿禰者、波多臣之祖也、 連胤云、寸は村の略字也、この例大和國十市郡石寸山ロ神社の條に委しく云り、 類社 越中國礪波郡箭代神社 神位 国内神名帳云、南郡從五位上屋代村社前、 氏人 続日本紀、慶雲2年12月癸酉、從六位下波多朝臣廣麻呂從五位下、 続日本紀、天平9年2月戊午、无位矢代王正五位下、」天平宝字2年12月丙午、毀從四位下矢代女王位記、とある矢代も、此地名より出たるなるべし、 神社覈録 |