夜疑神社
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   【延喜式神名帳】夜疑神社 和泉国 和泉郡鎮座

   【現社名】夜疑神社
   【住所】大阪府岸和田市中井町2-7-1
       北緯34度28分50秒,東経135度24分14秒
   【祭神】布留多摩命 (配祀)八幡大神 春日大神 菅原大神
        (合祀)品陀和気命 菅原道真 天照大神 天手力男神 犬飼宿祢
       狹依毘売命 保食神 素盞嗚命 武甕槌神 経津主神 天児屋根命
       比淘蜷_ 栲幡千千姫命 少名毘古那神 水分神 伊弉那美命

       安曇族の海神、豊玉彦の子、布留多摩乃命を祖神として、八木一族が奉祀したのが起源と考えられる。

   【例祭】10月9日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】正応2年(1289)正月『和泉国神名帳』に「八木社」
       明治5年(1872)村社
       明治43年3月神饌幣帛料供進に指定
       昭和18年に郷社

   【関係氏族】八木氏
       新撰姓氏録の右京神別に、「八木造、和多罪豊玉彦命見布留多摩乃命之後也」

   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】
   【公式HP】 夜疑神社
   【公式HP】 夜疑神社
   【社殿】本殿三間社流造
       幣殿・拝殿・神饌所・絵馬所・手水舎・社務所

   【境内社】稲荷神社・市杵島神社・夜疑戎神社
   【境内図】 境内図

弥生遺跡で有名な「天の川」のほとり、天の川低湿地の小高い所に鎮座している。近くに古墳群や氏子地域内全域にわたって条里制の遺構がある。八木の地は肥沃で水利も良く、古くから拓けた所であった。
安曇族の海神、豊玉彦の子、布留多摩乃命を祖神として、八木一族が奉祀したのが当社の起源とされている。
境内の「雨淵」は旱天でも涸れることはないと伝えられ、旱害の時には、この池の水を俊い、幣帛を納め当社に祈れば、必ず慈雨があつたという。
明治41年に多くの社を合祀し、祭神多い
また、祭神は氏子等の唐臼を用いることを忌み嫌い古くより氏子等に唐臼を使用するものなく、若しこれ使えば神罰を蒙るとされ、立臼・平杵のみ使ってきたが、農家に於て唐臼を使えないのは不便であり、神祇管領ト部氏に訴え、寛保元年8月9日特に祭事を行い、其の免除を願って初めて唐臼を用いることになったとされている。寛保元年(1741)のこの祭事の折の祀詞の写しが現存している。
津田雲渓の筆による「雨乞行事絵馬」は、昭和34年8月、市文化財に指定されている。


由緒

当社の創建は定かでないが、延喜式神明帳に登載されている和泉郡28座の中の古社で、由緒に関する文書はなく、ただ延喜式神明帳・新撰姓氏録・その他の傍証により、古くより現在の地に鎮座していたことが判明するのみである。
正応2年(1289)正月、大鳥神社の祢宜 高信によって書写された『和泉国神明帳』によると「八木社」は「従五位上」と記されている。
明治5年村社に列し、同41年11月25日大字池尻字持の木の村社春日神社、大字小松里字宮の前の同八幡神社、小松里と大字額原との立合なる字風呂尻の同菅原神社、大字大町字福知山の同八阪神社、同じく大町字里井の同豊受社、同じく大町字宮の内の同菅原神社、大字西大路字土井の同厳嶋神社、大字箕土路字犬飼の同犬飼神社、同じく箕土路字宅地の同菅原神社、大字下池田字24の坪の同菅原神社、大字荒木字24の坪の八幡神社、明治42年10月19日大字吉井字宮の前の同菅原神社、同年7月16日大字高月字高畑の同菅原神社、大字北出字前の同産土神社を合祀し、明治43年3月、神饌幣帛料供進社に指定される。昭和18年7月19日郷社に列す。正面右にある「式内郷社 夜疑神社」の社名碑は、元岸和田藩主岡部長景氏の揮毫になる。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




式内夜疑神社略記

社紋三頭巴 (〒596)岸和田市中井町(字後橋)479番地鎮座
電話0724(45)2191
祭日
例祭(大祭)    10月9日・10日
春祭(中祭)    4月15日(祈年祭)
夏祭(中祭)    7月15日
冬祭(中祭)    12月15日(新穀感謝祭)
元旦祭(中祭)   1月1日
月並祭(小祭)   各月1日
成人祭(小祭)   1月15日
節分祭(小祭)   節分
夏越抜      6月30日
七五三祝祭    11月15日
大抜       12月31日
除夜祭(小祭)   12月31日
沿革
当社は弥生遺跡で有名な天の川のほとり、海抜10〜15m、天の川低湿地の小高い所に位置している。
天の川ぞいに池尻・大町・小松里・箕土路・下池田・中井・荒木・吉井等氏地内の至る所で弥生の遺物が出土している。
殊に池尻・中井に於いては縄文の遺跡が確認されている。又時代が下って池尻を中心に古墳群、全域に亘って条里制の遺構がある。
「八木」は即「米」と言われるように、天の川と加守川にはさまれた八木の地は肥沃で水利も良く、古くから開けた所である。
鎮座地の「中井」は『和泉誌』に「旧名中八木」と誌され、「中八木」とは八木の中心を意味し、八木一族居住の本拠地であったと思われる。「八木郷」とは古くは池尻・額原以北、高月・北出以南、吉井以東、東大路以西の一画を指す。
旧来の夜疑神社は中井村一村の氏神であって、現在のように八木郷の総氏神となったのは、明治41年以降各字(村)持ちの氏神を合祀して以来のことである。
境内より天平・平安を始め、鎌倉期の古瓦が出土した事もあり、約1300年前には八木の地は既に開け、夜疑神社も栄えていたようだ。
中世に至り文献の中に「八木」の見えるのを以下に記す。
「和泉国八木ノ小屋」(尊卑分脈)
「十郎蔵人(源行家)殿は和泉国八木郷といふ所にまします」(平家物語)
「八木弥太郎法達、八木城を保つ」(太平記・和田文書)「岸和田の一族はせ向ひ、相戦ふと雛も、勝利を得ずして、しはらく八木の城に籠る」(南山巡狩録)一原文のまま「和泉国八木郷国衙」(後花園天皇康正二年段銭引付)
社名
「夜疑」「陽疑」「揚貴」「八木」などと表記されたこともあるが、いづれも「やぎ」と訓む。金剛寺本では「ヤキノ」神社としている。 鎮座地が「中井」であるところから、俗に「中井の宮さん」と呼ばれている。
祭神
「布留多摩乃命」(主祭神)
  八木造の祖神、海神、祓い・航路安全の神。
     豊玉姫命
大綿津見 神玉依姫命
     穂高見命
     布留多摩命  天忍人命
     (大日本神名辞書に依る)
新撰姓氏録の右京神別に、「八木造、和多罪豊玉彦命児布留多摩乃命之後也」とあり、安曇族の海神、豊玉彦の子、布留多摩乃命を祖神として、八木一族が奉祀したのが当社の起源と考えられる、
同族の神としては、「安曇犬養」「安曇山背」「犬養」「海犬養」「凡海」等がある。安曇族の本拠地は筑前粕屋郡阿曇郷で、この地は「卑弥呼」時代の「奴国」に当る。
「品陀和気命」元八幡神社(小松里・荒木)
  春日神社(池尻)
  菅原神社(吉井)
  産土神社(北出)
別名、応神天皇
八幡さまの信仰は母が子供を抱きかかへ、慈愛を以ってこれをはぐくみ育てる大愛の徳を本願とする。
「菅原道真」元菅原神社 箕土路・大町・額原並北額
            下池田・高月
厳島神社(酉大箪)
八幡神社(小松里)
春日神社(池尻)
産土神社(北出)
別名、天神さん
天神信仰は世間によぐ知られている学問神のほかに、「雷除け」と怨霊を畏怖する「御霊」信仰とがある。
「天照皇大神」元菅原神社(下油田)・伊勢神宮内宮の祭神、生成化育の御神徳。皇室の祖神であり、我国の総氏神。
「天手力男神」元犬飼神社(箕土路)
思慮・剛勇の御神徳。
「犬飼宿祢」元犬飼神社(箕土路)
県犬飼橘三千代(橘諸兄の母)。
「狭依毘売命」元厳島神社(西大路)
別名、市杵島姫命、(俗称弁天さん)
元来は水の神。灌慨用水・水路安全の神。
「保食神」元豊受神社(大町)
食物の神
「素盞鳴命」元八阪神杜(天町)
山林・漁業・農業の守護神
「武甕槌神」元八幡神社(小松里)
       春日神社(池尻)
       菅原神社(吉井)
護国の神
「経津主命」元八幡神社(小松里)
       春日神社(池尻)
       菅原神社(吉井)
護国の神
「天児屋根命」元八幡神社(小松里)
        春日神社(池尻)
        菅原神社(吉井)
言魂の神
「比淘蜷_」元八幡神社(小松里)
       春日神社(池尻)
       菅原神社(吉井)
天児屋根命の姫神
「拷幡千千姫命」元春日神社(池尻)
織物の神
「少名毘古那神」元菅原神社(下池田)
国土経営・医薬の神
「水分神」元菅原神社(下池田)
水の神、後世には子守りの神
「事代主命」元菅原神社(吉井)
別名、戎さん。商売繁昌の神
「伊邪那美命」元菅原神社(箕土路・吉井)
伊邪那岐命の姫神、生成化育の神
由緒
当社の創建は定かでないが、延喜式神明帳に登載されている和泉郡28座の中の古社で、由緒に関する文書はなく・ただ延喜式神明帳・新撰姓氏録・その他の傍証により、古くより現在の地に鎮座していたことが判明するのみである。
正応2年(1289)正月、大鳥神社の称宜高信によって書写された「和泉国神明帳」によると「八木社」は「従五位上」と記されている。
明治5年、村社に列し、同41年11月25日大字池尻字持の木の村社春日神社、大字小松里字宮の前の同八幡神社、小松里と大字額原との立合なる字風呂尻の同菅原神社、大字大町字福知山の同八阪神社、同じく大町字里井の同豊受社、同じく大町字宮の内の同菅原神社、大字西大路字土井の同厳嶋神社、大字箕土路字犬飼の同犬飼神社、同じく箕土路字宅地の同菅原神社、大字下池田字24の坪の同菅原神社、大字荒木字24の坪の八幡神社、明治42年10月19日大字吉井字宮の前の同菅原神社、同年7月16日大字高月字高畑の同菅原神社、大字北出字前の同産土神社を合祀し、明治43年3月、神饌幣帛料供進社に指定される。昭和18年7月19日郷社に列す。正面右にある「式内郷社夜疑神社」の社名碑は、元岸和田藩主岡部長景氏の揮毫になる。
伝承・其の他
〔雨淵〕この雨淵に伝承ありそれを以下に記す。
往昔雨降ラサル事数十旬耕作ノ季節二至ルモ地ニ水ナク苗ヲ下ス事ヲ得ス氏子等大ニ苦ム此ニ於テ当社ノ氏子等挙テ潔斎シー週日当社ニ集ヒ日夜雨ヲ祈ル然ルニー週ノ祈願満スルノ夜何地ヨリカ白髪浄衣ノ老翁手ニ幣帛ヲ捧ケ出テ来リ告テ日ク我ハ此ノ社ニ鎮座夜疑大神ナリ天今慈雨ヲ降ササル事日久シク汝等業ヲ営ム能ハス挙テ雨ヲ乞ヒ祈ル既ニ一週我レ汝等ノ困苦ヲ憐ム故ニ今汝等ニ此幣帛ヲ與ヘン速ニ此境内ノ地ヲ穿ッコト一丈然シテ此御幣ヲ其底ニ蔵メ待ッヘシ必ス其所ニ泉ヲ漏シ天ニ雨ヲ呼ハント宣へ玉ヒテ御幣ヲ授ケ下シ給ヒ忽チ消へ失セサセ玉フ此処ニ氏子共三拝九拝神勅ノ程有難ト直ニ神御幣ヲ唐樋二蔵メ地ヲ本社ノ南ニトシテ神勅ノ随々蔵シマツレリ然ル処一夜ニシテ溥々タル泉涌キ出テ雨忽チニ降リ出シ数日止ム事ナク地ニ用水充満セリ即チ苗ヲ下スヲ得氏子等始メテ憂眉ヲ開キ大ニ喜ヒ此池ヲ雨淵ト称シテ神徳ノ広大ナルヲ感拝セリト伝フ
今に此の池を雨淵と言う。四時水絶えることなく如何なる大早でも洞れたことなく、もし雨水乏しければ当社に祈り此の池を俊えれば必ず降雨ありと言う。
〔宮座〕
明治41年から42年に亘って、各字持ち神社を合祀する迄は、各字とも宮座があったようだが、合祀されて後廃絶した所も多く、現在も存続しているのは2〜3にとどまる。ここでは中井の夜疑神社宮座について記す。
宮座の起源は資料に欠ける為判明しないが、拝殿前にある天保15年の銘ある狛犬に「廻神主儀左ヱ門代」とあるから、それ以前からであることは間違ない。
組織は氏子中に男子出生すれば宮詣りし、座儀連名記に登載する。これを「座入り」と言う。年長順に16人を選びこれを「十六人衆」と称する。他に「田作り」2名が定められ、この2名が神饌田の耕作に従事し、その徳を以って神社の経費を賄う。十六人衆は上の「六人衆」と「十人衆」に区分され、「十人衆」より「六人衆」に昇る時、「大戸」と呼ばれる饗応を行う。十六人衆の最年長者が、1年交替で廻り神主となり当社に奉仕する。これを「一老」と呼び、一老は任期中決して汚辱に触れることなく、家族の者とも別火とし厳重に潔斎し祭祀の執行・神饌の献撤を行ったと言う。明治初年、専任の神主が定められて後、廻り神主の制度は廃止されたが、他の事は現在尚厳密に行われている。
座の年中行事は、
1月13日  「餅座」一老ゆずり、座入りを行う。
節分   「注連縄張り」境内の周囲を張りめぐらす。
7月7日  「牛神祭」
9月2日  「蛸座」
10月4日  「湯立神事」
等々であるが、座の行われる日は必ず羽織を着用、扇子を携帯しなければならない。
〔夜疑廃寺跡〕
当社境内北端に隣接する耕作地より、平安後期から鎌倉初期と推定される瓦の破片が多数出土したことがある。神社建築には元来瓦は使用されないし、夜疑廃寺のものか、或いは古書に散見される八木城のものかと言われている。「夜疑廃寺跡」は平安後期の遺跡とされている。
〔絵画〕雨乞行事絵馬
縦124p、横155p、額縁に「文政九稔……」の銘があるが、現存のものは慶応年間に岸和田藩絵師、雲渓によって描き直されたものである。雨乞の様子のみならず、当神社の古い社堂配置がよく描かれている。この種の絵馬は府下には現存しないとの事で、数々の印刷物で紹介され遠来より見学者が訪れる。
〔祝詞〕唐臼使用の許しを乞う祝詞
当社の御祭神が当地に鎮座してより、何故か氏子等の唐臼使用を忌み給い、古来より氏子中に唐臼を使用する者なく、若し用いれば必ず神罰を蒙むったと言う。故に氏子等はことごとく立臼・手杵を用いていたが、不便この上なく、神祇管領ト部氏に謀り寛保元年(1741年)8月9日、特に祭事を行い神許を請いて後、唐臼を使用するようになったと言う。この祭事の時奏上せし祝詞。
境内社
〔稲荷神社〕
正確には夜疑神社隣接の社有境外山林に鎮座する。鎮座の年代は不詳なれど、古老の言い伝えによれば江戸期以前と言う。
祭神は「倉稲魂神」で、伏見の宮より勧請。古くより夜疑神社の現在地に鎮座し農民の崇敬篤かりしと言う。
〔市杵島神社〕
境内の雨淵の中に鎮座する。鎮座の年代は不詳なれど、現存する古図には既に記されている。
俗に「弁天さん」と呼ばれ、夜疑神社合祀以前から鎮座している。一般に「弁天さん」は水の中に祭られているように、本来は水の神・航海安全の神である。この水の神たる神格が、中世には七福神の一つたる弁才天にたとえられた。
〔夜疑戎神社〕
夜疑戎神社は、本社に合祀されていた事代主神を、別に社殿を設け昭和57年12月、独立奉斎したものです。

由緒書



夜疑神社

当社は弥生遺跡で有名な「天の川」のほとり、天の川低湿地の小高い所に鎮座しており、天の川沿いに池尻・大町・小松里こまつり・箕土路みどろ・下池しもいけ田だ・中井・荒木・吉井などの氏地内の各所で弥生遺跡が出土している。殊に池尻・中井に於いては縄文遺跡も確認されており、時代が下って池尻を中心に古墳群、氏地内全域にわたって条里制の遺構がある。八木の地は肥沃で水利も良く、古くから拓けた所であった。「陽疑」「揚貴」「八木」などと表記されたこともあるが、いずれも「やぎ」と読む。鎮座地の「中井」は『和泉誌』に「旧名 中八木」と記されており、八木の中心=八木一族居住の本拠地であったと思われる。
当社の創建は定かでないが、延長5年(927年)成立の『延喜式』に「夜疑神社」と記されており、また主祭神の布留多摩命については、弘仁5年(814年)成立の『新撰姓氏録』に「八木造。和多罪豊玉彦の児、布留多摩命の後すえなり。」とある。これらの傍証から、奈良時代以前にこの地を治めていた八木一族が祖神おやがみをお祀りしたのが起源と考えられる。平成24年の社殿改築に先立って行われた地中調査では、弥生式土器や古墳時代の須恵器の破片が見つかった。また奈良・平安・鎌倉時代の古瓦も多数出土した事から、約1,300年前には神社としての建物が存在し、それ以前も祭祀が行われる特別な聖域であった事が推察される。旧来、当社は中井一村の氏神様であったが、明治41〜42年に八木郷の各村に祀られた氏神様を当社に合祀して以来、八木郷の総氏神様と成った。現在の氏子地域は中井町・吉井町・荒木町・下池田町・箕土路町・西大路町・小松里町・額町・額原町・大町・池尻町(各町の公営住宅も含む)と忠岡町北出・忠岡町高月。氏子戸数は約1万戸。境内は約1,500坪。

公式HP



夜疑神社

夜疑は假字也、和名鈔、(郷名部)八木、〇祭神八木造祖神歟○南郡八木郷中井村に在す、(和泉志、式社考、)○姓氏録、(右京神別下)八木造、和多罪豊玉彦命児布留多摩乃命之後也、
神位
國内神名帳云、從五位上八木社、

神社覈録



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