男乃宇刀神
おのうとじんじゃ 所在地ボタン 社名ボタン















   【延喜式神名帳】男乃宇刀神社 二座 和泉国 和泉郡鎮座
          (旧地)男乃宇刀神【下の宮跡地】

   【現社名】男乃宇刀神
   【住所】大阪府和泉市仏並町1740番地
       北緯34度25分18秒,東経135度29分14秒
   【祭神】彦五瀬命 神日本磐余彦尊 五十瓊敷入彦命
   【例祭】10月10日 秋季例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】元慶年間(877−85)創立
       文禄年間に牛頭天王を勧請して、「牛頭天王」と称す
       明治5年(1872)祭神が五瀬命であることを発見
       同6年郷社
       明治40年1月、神饌幣帛料供進社
       昭和20年9月3日下之宮を合祀

   【関係氏族】
   【鎮座地】上の宮は移転の記録はない
        下の宮は現府立横山高校敷地にあった
        昭和20年9月3日下之宮を合祀

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「牛頭天王」と称していた
   【社殿】本殿春日造
       拝殿・社務所・倉庫

   【境内社】
   【宮寺】常願寺、明治維新の神佛分離で転出

神社名の「男乃」は兄、「宇刀」は弟の意味。
神武兄弟、霊泉池の伝承がある。神武が大和めざして進軍中、兄五瀬命が矢傷を負ったとき、地元の豪族「横山彦命」が二人をこの地に迎え仮宮を造ったのが起源とされる。
戦前はここ仏並町にある男乃(上の宮、兄五瀬)と府立横山高校敷地にあった八坂神社(宇刀 下の宮、弟神武)の二座を合わせて「男乃宇刀神社」と呼んでいた。
元慶年間に奉祀とされている。
境内に「常願寺」という宮寺があつたが、明治維新の神仏分離で転出している。
下之宮については、「文禄年間に神跡山脈の中央に道路を開拓せしにより字切阪と称する所に横山鎮護の神として遷し奉り其後に牛頭天王を奉齋して八阪神社と称し奉りしが明治45年5月還幸し奉りて八阪神社に合祀す、かかる深き縁をもつて昭和20年9月3日下之宮座神社(八阪神社下之宮座男乃宇刀神社)を当仏並座男乃宇刀神社に合祀奉齋せり」とある。
「下の宮」は「和泉市総合スポーツセンター」(旧 横山高校、現在は閉校)にあったとされる。
横山高校のどの位置に鎮座したかは不詳であるが、横山高校に隣接して「神宮寺」と称する寺院がある。


由緒

本社は延喜式神名帳に記された男乃宇刀神社二座のうち一座で、御祭神彦五瀬命は神武天皇御東遷に随従して当地に駐輦し給うた縁起により奉祀せられ、五十瓊敷入彦命もこの地を領せられた縁故によって元慶年間に奉祀された。
明治12年の神社明細帳に「彦五瀬命、長随彦を征し給う時、官軍を横山彦出迎へ行宮を造る其時御狩し玉ひし所御狩山と言う、今のカリ山之なり此地に神興渡御所在地有之」と記され、また和泉名所図会等にも、神武天皇が長随命を征した時、皇兄五瀬命が流矢に傷つき、軍を反した時、横山彦がこれを奉迎して当地に行宮を営んだと述べられている。
当社はこのように延喜の制小社に列した由緒ある古社で、明治6年郷社に列せられ、また明治40年1月神饌幣帛料供進社に指定された。 男乃宇刀神社二座のことにつき、神社明細帳に、男乃は兄乃にて五瀬命を仏並に祀し奉り下之宮と称したと述べられている。
また同明細帳に「文禄年間に神跡山脈の中央に道路を開拓せしより字切坂と称する所に横山鎮護の神として遷し奉り其後に牛頭天王を奉斎して八坂神社と称し奉りしが明治45年5月遷幸し奉りて八坂神社に合祀す。かかる深き縁をもって昭和21年9月3日下之宮座神社(八坂神社下之宮座男乃宇刀神社)を当仏並男乃宇刀神社に合祀し奉斎せり」とあるように戦後男乃宇刀神社に併合し奉って社殿拝殿は堺市方違神社に移され跡地は当初横山中学校、のち横山高校の敷地となった。
下宮「神宮寺」の門前一角に「八坂神社旧蹟」の建碑があるのはこれである。また明治維新まで仏並男乃宇刀神社の境内にも「常願寺」という宮寺があり宇治川合戦先陣の功賞で横山荘を授けられた佐々木高綱の建立といわれ当寺を菩提所としてのち出家し住職をしたといわれている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




男乃宇刀神社由緒略記

所在地 和泉市仏並町1740
宮司 葛城亨
祢宜 葛城渉
創建年代 元慶年間(陽成天皇の代)
現神社再建年代不詳
ご祭神 彦五瀬命
    神日本磐余彦尊(神武天皇)
    五十瓊敷入彦命
本社は延喜式神名帳に記された男乃宇刀神社二座のうちの一座で、御祭神彦五瀬命は神武天皇御東遷に随従して当地に駐輦し給うた縁起により奉祀せられ、五十瓊敷入彦命もこの地を領せられた縁故によって元慶年間に奉祀された。
明治12年の神社明細帳に「彦五瀬命、長随彦を征し給う時、官軍を横山彦出迎ヘ行宮を造る其時御狩し玉ひし所御狩山と言う、今のカリ山之なり此地に神興渡御所在地有之」と記され、また和泉名所図会等にも、神武天皇が長随命を征した時、皇兄五瀬命が流矢に傷つき、軍を反した時、横山彦がこれを奉迎して当地に行宮を営んだと述べられている。
当社はこのように延喜の制小社に列した由緒ある古社で、明治六年郷社に列せられ、また明治40年1月神饌幣帛料供進社に指定された。 男乃宇刀神社二座のことにつき、神社明細帳に、男乃は兄乃にて五瀬命を仏並に祀し奉り上之宮と称し、宇刀は弟にて神日本磐余彦尊即ち人皇第一代神武天皇を下之宮に祀し奉り下之宮と称したと述べられている。
また同明細帳に「文禄年間に神跡山脈の中央に道路を開拓せしより字切坂と称する所に横山鎮護の神として遷し奉り其後に牛頭天王を奉斎して八坂神社と称し奉りしが明治45年5月還幸し奉りて八坂神社に合祀す。かかる深き縁をもって昭和21年9月3日下之宮座神社(八坂神社下之宮座男乃宇刀神社)を当仏並男乃宇刀神社に合祀し奉斎せり」とあるように戦後男乃宇刀神社に併合し奉って社殿拝殿は堺市方違神社に移され跡地は當初横山中学校、のち横山高校の敷地となった。
下宮「神宮寺」の門前一角に「八坂神社旧蹟」の建碑があるのはこれである。
また明治維新まで仏並男乃宇刀神社の境内にも「常願寺」という宮寺があり宇治川合戦先陣の功賞で横山荘を授けられた佐々木高綱の建立といわれ当寺を菩提所としてのち出家し住職をしたといわれている。
年中行事
○毎年十月十日の秋季例祭には神幸祭がある。神輿二台を仏並・大畑・坪井・小川・小野田・九鬼・岡・北田中・下之宮・福瀬・善正・南面利の各町輪番で町内を廻り、社頭では演芸大会の奉納がある。
参考資料
○本殿…流造、八坂神社…流造
○拝殿…銅板葺平家建、社務所その他
○ 社地は、槇尾川の上流横山盆地の西山斜面幽遂の地である。
男乃宇刀神社(大阪府誌)
西横山村大字佛並の乾位に在り、延喜式内の社にして祭神は彦五瀬命、五十瓊敷入彦命の二柱なり。社傳に云ふ神武天皇長髄彦を征し給ひしとき皇兄五瀬命流矢に中り給ひしかば軍を反し給ひき。時に横山彦命天皇を奉迎して此の地に行宮を造り、天皇の出でて狩し給ひし処即今の御狩山なり、降りて陽成天皇の元慶年中初めて社を建て二神を勧請し、文禄年中より明治の初年までは牛頭天王と唱へしが同5年祭神の彦五瀬命にして殊に紀念の社たるを知り同6年郷社に列せられきと。御狩山は神輿の渡御所にして、境内すべて壱町四反余ありて中に丘あり細流あり森然として林を爲し夏時涼を納るゝに適し、数座の末社は処々に点在し維新以前は他に成願寺と称する宮寺ありき。寺は佐々木高綱宇治川先登の賞として横山荘を賜はりしとき建て・菩提所と爲し・処にして、随ひて此の地を佐々木嘉と呼び附近に在る馬塚は是れ駿馬池月を埋めし処、正保の頃拓きて畑と爲し當時馬骨及び轡等を掘出せしと云ふ。
解氣井は大字坪井にあり彦五瀬命の矢疵を洗はせ給ひし処、後世、刀傷打身の諸瘡を此の泉に濯げば忽平癒すと傳ふ。今、澤某の邸内なる古井是れなり。
男乃宇刀神社(おのうとじんじゃ)は延喜式内社で、上の宮は仏並町、下の宮は下の宮町にあり、彦五瀬命(ひこいつせのみこと)を祭っている。下の宮は、戦後、横山中学を建設するため、その敷地をゆずり、又、その社殿は堺の方違神社へ移譲された。
秋祭には、若者によって、みこし二台がかつがれ町内をまわり、にぎわう。(和泉市内の神社で、現在みこしがかつがれるのは聖神社と男乃宇刀神社の二社のみである。)

由緒書




郷社 男乃宇刀神社

祭神 彦五瀬命 五十瓊敷入彦命
彦五瀬命は神武天皇の御兄君にして。賊矢に中りて斃れたまひし事、男神社の條に述へたり、就きて見るべし、五十瓊敷入彦命は垂仁天皇第一皇子にして、同天皇35年勅によりて河内国高石池、及茅淳池、倭國狭城池迹見池を作りたまひ、同39年河内茅淳菟砥川上宮にゐまして剣千口を作りたまひし事、日本紀に見えたり、当社創祀年月詳かならず、醍醐天皇廷喜の制小社に列す(延喜式)、和泉郡男乃宇刀神社二座とある内の一座なり、一座は下宮村に在り、神武天皇を祀る(名所図絵、神社覈録、神祇志料)、思ふに初め彦五瀬命のみなりしを、五十瓊敷入彦命は後に合祀せしものなるべし、神祇志料に
「日根郡男神社二座も同祭神なりといふ、合せ考ふるに故ありて彼処より遷し奉れる社にか、極めて拠ある説なるべし云々」
國内神名帳に、従三位男宇止社とあり、明治6年郷社に定まる。境内2790坪(官有地第一種)、社殿は、本殿其他神饌所等の建物を備ふ、社の邊に狩山といふがあり、之れ彦五瀬命、長脛彦を攻めたまひし時、横山彦なるもの皇軍を迎へ請し、其時御狩をなしたまひし処なりといふ、比地に神輿渡御の儀あり。

明治神社誌料



男乃宇刀神杜二座

男乃宇刀は假字也○祭神分明ならず〇一座は横山庄下宮村に在す、男乃明神と称す、一座は同荘佛並村に在す、今牛頭天王と称す、(和泉志、式社考、)○男乃地名の事は、日根郡男神社の條に云り、』宇刀は、日本紀、垂仁天皇39年10月、五十瓊敷命居於茅淳菟砥川上宮、作劒一千口、」式廿一(諸蕃)云、宇度墓、五十瓊敷入彦命、在和泉國日根郡、
考証に、男者日根郡呼淤、宇刀者菟砥也、」和泉志に、宇度墓、日根郡在自然田村東宇度川上玉田山、土人建小祠干墓上、と云り、連胤按るに、さるとならめど両称とも常郡の事にあらず、されど由縁ありて、此処に祭れるにもやあらむ、』又按るに、男乃明神と號するは、日根郡男神社同躰にて、五瀬命なるべし、さては爰に素尊を祭るべき由縁は通えず、恐らくは牛頭天王と号するも五十瓊敷入彦命なりけむ、猶考ふべし、
神位
國内神名帳云、從三位男宇止社、

神社覈録



詳細ボタン


和泉国INDEXへ        TOPページへ



順悠社