現在の海岸線より500mほどの距離であり、もとは海浜近くにあったと思われる。「ほんみち本部」の南に接して鎮座している。 境内の井戸からは今日でも真水が得られ、海浜に近い場所で清水が得られることは、飲料用として測り知れない恩恵を与えたものと推察される。 近世には「井戸守(森)明神社」と称され、境内の井泉を守護する今在家村の氏神として尊崇された。 境内に井戸守稲荷大明神という摂社があり、井戸の水を守る神様で、実はこの井戸守が守る水の神が本来の大鳥羽衣浜神社の祭神と思われる。 社前の石標には「羽衣浜神社」とある。 |
大鳥浜神社 謹みておもんみるに創祀せられしは文武天皇の御代にして慶雲3年に鎮座せられ今日に至るまで実に1260余年を経たる延喜式内の古社であります。古くより井戸の守大明神と申し上げ尊崇せられてまいりました。境内手水舎の井戸水は古来霊泉として近郷近在より拝載せられておりました。 社頭掲示板 |
大鳥羽衣濱神社 両道入姫命 謹しみて惟みるに創祀せられしは文武天皇の御代のして慶雲3年に鎮座せられ今日に至るまで実に、1260年有余年を経たる延喜式内の古社であります。古くより井戸の守大明神と申し上げ尊崇せられてまいりました。境内手水舎の井戸水は古来霊泉として近郷近在より拜戴せられて居りました。 例大祭 10月第二土曜日 ※当社が大鳥五社明神の一社として大鳥神社と結びついたことからの祭神と思われます。当社が大鳥五社成立以前からあったとすれば、本来の祭神は、由緒に記すように涸れることのない神水(井戸)への崇敬対象としての水神であったと思われますが、それを証する資料は今のところ見つかっておりません。 正一位井戸守稲荷大明神 稲荷大明神は五穀豊作・商売繁昌の神として尊崇せられ地元氏子民の昭和37年新た鎮祭せしものなり 例大祭 初午 境内右手の疎林中に稲荷社がございます。末社・“井戸守稲荷”(井戸守稲荷大明神)、昭和37年勧請。 元禄4年(1691)の寺社改帳より 「泉州大鳥郡今在家村 井戸守明神社 右井戸守明神社勧請年号不分明に御座候へ共、云々」 和泉志(1736)より 「大鳥浜神社 今在家村に在り、井戸森明神と称す。・・・村中先祖代々の氏神に御座候」 とあります。当地・今在家村(字井戸森)には、江戸時代以前から創建時期不詳の古社・井戸守(森)明神社との氏神社があったと言われております。 この井戸守明神社と大鳥浜神社との関係は不詳ですが、神社明細帳(1879・明治12)で、これを式内・大鳥浜神社の後継社に比定し(式内社調査報告)、現在に到ります(その根拠は不明)。 ただ、当社が古く“井戸守”と称したこと、社前に深い“井戸”があり(現在の手水槽がその跡)、海辺にあって眞清水を湧き出すことから、式内社調査報告に 「この井戸水は神水として尊崇され、これが当社への信仰として受け継がれたのであろう」 と記されております。この井戸(あるいは井戸水)に対する信仰が当社の始まりと考えられております。 公式HP |
羽衣浜神社 羽衣浜神社は、古くは大鳥浜神社と呼ばれていました。 大鳥大社の摂社(摂社とは本社と末社の中間になる位)で、井戸之森大明神とも呼ばれています。 古い歴史のあることは、「延喜式」の神名帳にも記されています。 また、神社一帯は、古代人の集落跡「羽衣砂丘遺跡」でもあります。 古墳時代後期〜奈良時代(6-8世紀)にかけての人々の生活がわかる土器・須恵器をはしめ、漁業に使った網の錘・飯蛸壺などが出士しています。そしてその当時の人々が食用にしたアカ貝、アサリ、サザエなどの貝殻、真鯛の頭骨も出土しました。 社頭掲示板 |
大鳥濱神社 鍬 大鳥は前に同じ、浜は波麻と訓べし○祭神両道入姫命歟、(泉州志に、天児屋命といふ、今従はず、)〇今在家村に在す、今井戸森明神と称す、(和泉志、式社考、) 連胤云、当社両道入姫命なるべく思る事は、前なる大鳥鍬靱社の條にいへり、考へ合すべし、』泉州志に、神鳳寺縁起帳云、天古移根命十一世孫大野臣、從筑紫来住、観此則大野臣來大鳥里齋大鳥神、自称大鳥姓奉祖神耶、(神鳳寺大鳥神宮寺也)或説、爾波比社次加中ツ尾社、不加浜社云、中ツ尾社者両道入姫命也、」連胤按るに、縁起は例の信用がたし、國帳正三位中津尾社といふありて、当郡第三に載す、はた正三位の社は中津尾に限れり、されば崇敬異なる社とは見えたれど、慥なる証なし、和泉志にも漏したり、猶考ぶべし、 神位 國内神名帳云、從三位大鳥浜社、 社地 神田 大鳥社流記云、(泉州志引用)坐島木里五坪内、神田二段、即敷地勅施入、 神社覈録 |