高石神社
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   【延喜式神名帳】高石神社 和泉国 大鳥郡鎮座

   【現社名】高石神社
   【住所】大阪府高石市高師浜4-1-15
       北緯34度31分38秒,東経135度25分57秒
   【祭神】少名彦名命 天照大神 熊野坐三社
       『和泉国名所図会』高志の祖王仁

       当地に居住し、当社の祭祀氏族とされる高石連がその祖・王仁を氏神として祀ったものであろう

   【例祭】10月6日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】白雉元年(650)創立と伝
       寛治年中(1087−94)社殿再建
       明治5年(1872)郷社
       昭和9年の室戸台風で被災する

   【関係氏族】高志氏
   【鎮座地】当社は創建時より現社地に在つたもとの推定される

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「天神」と称していた
   【公式HP】 高石神社
   【社殿】本殿入母屋造
       神饌所・樂舎・拝殿・手水舎・神庫・神輿庫・社務所・参集殿

   【境内社】末社殿

高師浜駅の東北に接して鎮座する。
古くは当社附近より西は白沙青松・風光明媚な海浜として知られていた。
平安朝に入つてからは高野・紀州街道に近いことが幸いして、数多くの歌が詠われた。恐らく当初は高石荘の鎮守神として鎮祭され、熊野詣の途次に位置することから「伊邪那美命」を祀り、「熊野坐三社」を配祀したのであろう。


由緒

創祀の歳月確かならず。或は云う、白雉元年なりと。(昭和55年を隔る1330年前也)。
醍醐天皇延喜の御代、制式の小社に列し、堀河天皇の御代、寛治年間(昭和55を隔る900年前也)社殿の再建あり。国内神名帳に云う、従五位上高石大歳社、高石倉立社と見ゆ、今天神と称す。(式内考に載る)。
今の社殿は、寛永12年(昭和55年を隔る336年前也)の再建なり。和泉名所図絵には、高志の祖、王仁を祀ると記せり。或は、往古境内に王仁を祀る一社ありしにやあらん。
昭和9年9月21日関西地方を襲える稀世の風水害に遭遇し、被害甚大、巨木倒壊し、社殿を損い、昭和10年10月12日改築復旧造営起工をなし、昭和11年5月15日竣工遷座祭を斎行す。
昔、逍遥院三條実隆高野参詣の途次、この社に立寄り、高師浜の松原の下、天神社の前に輿を立て、「袖の上に松吹く風やあだ浪の高師の浜の名をも立つらん」実隆(逍遥院高野紀行に云う)。
境内には、小倉百人一首、祐子内親王家紀伊の詠まれたる、
「音に聞く高師の浜の仇浪はかけしや袖のぬれもこそすれ」
の碑あり。高さ七尺、幅四尺の自然石にて苔蒸せり、従三位富小路貞直の筆なり。
老樟の下に石玉垣を周らしたる碑あり。白河鳳おう熊野権現御拝所と記せり、紀州熊野詣の途次ならん。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




高石神社

創祀の歳月定かならず。或いは云う、白雉元年なりと。
醍醐天皇延喜の御代、制式の小社に列し、堀河天皇の御代、寛治年間社殿の再建ありと見ゆ、今天神と称す。
今の社殿は、寛永12年の再建なり、和泉国名所図絵には、高志の祖、王仁を祀ると記せり。或いは、往古境内に王仁を祀る1社ありしにやあらん

社頭掲示板



高石神社

高石神社は、古くは天神の社として知られ、古い歴史があることは、「延喜式」の神名帳に高石神社として記されており、大阪湾を西に望む松林に建っています。近くには筆屋という宿屋かあって、多くの旅人かここで休息しています。その中には、有名な歌人や江戸末期の測量学者伊能忠敬もいます。
境内は琶の高師浜の風景を良く残しています。
1994年3月 高石市

社頭掲示板



高石神社

  創祀の歳月確かならず、或は云う、白雉元年なりと。(平成4年を隔る1350年前也)。
醍醐天皇延喜の御代、制式の小社に列し、堀河天皇の御代、寛治年間(平成4年を隔る900年前也) 社殿の再建あり、国内神名帳に云う、従五位上高石大歳社、高石創立社と見ゆ、今天神と稱す。(式社考に載る)。
  今の社殿は、寛永12年(平成4年を隔る350年前也)の再建なり。 和泉名所図絵には、高志の祖、王仁を祀ると記せり。或は、往古境内に王仁を祀る一社ありしにやあらん。
  昭和9年9月21日関西地方を襲える稀世の風水害に遭遇し、被害甚大、巨木倒壊し、社殿を損い、 昭和10年10月12日改築復旧造営起工をなし、昭和11年5月15日竣工遷座祭を斎行す。
  昔、逍遙院三條実隆高野参詣の途次、この社に立寄り、高師浜の松原の下、天神社の前に輿を立て
「袖の上に松風吹く風やあだ浪の高師の浜の名をも立つらん」 実隆(逍遙院高野紀行に云う)。
  境内には、小倉百人一首、祐子内親王家紀伊の詠まれたる、
「音に聞く高師の浜の仇浪はかけじや袖のぬれもこそすれ」 の碑あり。 高さ7尺、巾4尺の自然石にて苔蒸せり 従三位富小路貞直の筆なり。
  老樟の下に石玉垣を周らしたる碑あり、白河鳳凰熊野権現御拝所と記せり、紀州街道熊野詣の途次ならん。

公式HP



郷社 高石神社

祭神 少彦名命 天照皇大神 伊弉冉命
創祀の年月確かならず、醍醐天皇延喜の制、式の小社に列し、堀河天皇寛治年中社殿の再建あり、國内神名帳云、従五位上高石大歳社、高石倉立社と見ゆ、今天神と称す、(式社考)明治5年郷社に定まる、境内972坪、(官有地第一種)社殿は、本殿、拝殿、幣殿、其他神饌所、等の建物を備へ、有名なる高石濱にして、嵯峨たる老松幹を連ねて、緑の色とこしへに濃かなり、逍遥院殿高野紀行に曰く、
高師濱の松原の下、天神社の前に輿を立てゝ
「袖の上に松吹く風やあた浪の高師の濱の名をも立つらん」
と明治維新の際此高師の松を切りて、士族授産の料に充てられし事あり、時の内務卿大久保利通之を見て、堺なる県令の許に、伐採の情なき由をいひ送り、停止せしめらる、近年其由を石に記して松原に立つ、其時の利通の歌に、
「音にきくたかしの浜の浜松も世のあだなみは逃れざりけり」

明治神社誌料



高石神社

高石は多加之と訓べし、日本紀垂仁天皇35年9月、遣五十瓊敷命子河内国、作高石池、」同、持統天皇3年8月辛巳朔丙申、禁断漁猟於云々、置守護人、准河内國大鳥郡高脚海、〇祭神詳ならず〇高石庄高石北村に在す、(和泉志)今天神と称す、(式社考)
神位
國内神名帳云、從五位上高石大歳社、高石倉立杜、

神社覈録





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