蜂田神社
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   【延喜式神名帳】蜂田神社 鍬 和泉国 大鳥郡鎮座

   【現社名】蜂田神社
   【住所】大阪府堺市中区八田寺町524番地
       北緯34度31分41秒,東経135度28分45秒
   【祭神】天児屋根命 (配祀)菅原道真 金山比古命 伊弉冉尊
       蜂田氏の祖神・天児屋根命とするに異論はみえない


   【例祭】10月第1土曜日 例祭
   【社格】
   【由緒】永禄11年の三好対松永の家原城攻防が原因で現在地に遷
       昭和57年不審火で社殿焼失

   【関係氏族】児屋根命の後裔蜂田連
       神饌姓氏禄に「和泉国神別(天神) 蜂田連 天児屋根命之後也」とある中臣系氏族

   【鎮座地】永禄以前は、現在地より西1丁余りの山麓に鎮座してた

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「天神社」と称していた
   【社殿】本殿春日造
       幣殿・拝殿・神饌所・手水舎・絵馬殿・祭具庫・社務所・参集所

   【境内社】稻荷社

八田荘小学校の北に鎮座する。鈴の宮(すずのみや)と称されている。
永禄年間以前は、現在地より西1丁余りの山麓に鎮座していたが、永禄11年の三好対松永の家原城攻防が原因で、現在地に遷したと伝えている。
祭神天児屋根命の後裔蜂田連が奉斎し来れる神社とされている。
通称を「お鈴の宮」とよぶことの起りは、当社の起源と思われる蜂田連が土焼きの鈴12個を作り毎年春の初めに神前に供え、鈴音の良し悪しでその年の吉凶を占ったという古事によるもので、現在も毎年2月節分の日に、境内の土を使って12種の占い鈴を作り、古式どおりの鈴占神事(すずうらないしんじ)を行い、神前に開運厄除の御守鈴をお供えしている。
鈴調製の原料となる土は、社務所・参集所の南境内の一部より採土している。茶褐色の粒子の細かい良質の粘土で、土器製作に適している。
近世では神宮寺として西林寺を併有していたが明治の神仏分離令により西林寺は廃寺とした。
明治初年までは氏子と神宮寺の社僧が社務を執行したため、世襲の神職は無く、また宮座・頭屋・講などの組織も結ばれなかつた。


由緒

泉州鈴之宮蜂田神社略記
当神社は和泉国神名帳大鳥郡二十四座の内の式内社にして、創立既に上代に属す。社伝に永禄年代以前は現在地西一丁余の山麓に鎮座ありしを、三好松永等の輩家原城を攻むるに方り不幸回禄に帰し現社地に遷るという。今なお古宮の跡を存せり。延喜式に既に鑿靱の大幣に預かり給い、当国神命帳に正四位上を受け給える明神に在し、代々御祭神天児屋根命の後裔蜂田連が奉斎し来れる神社にして、大鳥郡内の古社として往昔より斎かれ給えること史に徴して明らかなり。当神社を鈴の宮と呼ぶことの起こりは、毎年節分に当たり鈴占い神事として古式により祭典執行のことあればなり。この神事は今より一千百余年の昔、蜂田連なる人土焼の鈴十二個を作り、毎年の春の初めに神前へ献りその音の善し悪しによりてその年の吉凶を占い給いし古伝によれるものなり。近年は神域の清き土を以て十二種の占鈴の外開運厄除の御守鈴を作り神前に献供して祈願をこめ一般参拝者の乞いにより授与のこととせり。当社においては古来神事に使用したる土鈴、撤下後鈴塚に埋蔵し来たりしを、昭和四年以来このことを止め節分当日参拝者へ抽選を以て頒つこととせり。現今にては当社授与の土鈴のうち破損したるを返納される向き多くなりたるにより、この分毎年12月8日修祓を行ないて埋蔵するを例とせり。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




蜂田神社

当社の起源は古く、当地を原籍とする蜂田連の祖天児屋根命を主祭神として祭る。
創建は明らかではないが延喜式神名帳にも記されている古社である。永禄年間以前の当社は、現在地より西1丁余りの山麓に鎮座していたが、永禄11年の三好衆対松永勢の家原城攻防が原因で現在地に遷宮したと伝えている。近世では神宮寺として西林寺を併有していたが明治の神仏分離令により西林寺は廃寺とした。
なお明治政府の神社合祀策によって、明治43年(1910)付近の村社6社と無格社2社(八田荘7社・久世1社)を合祀した。通称当社を鈴の宮と呼ぶのは当社の起源と思われる蜂田連が土焼きの鈴12個を作り毎年春の初めに神前に供え、鈴音の善し悪しでその年の吉凶を占ったという故事によるものである。
近年は境内の土を使って12種の占い鈴を作り、古式通りの鈴占いを行うほか、開運厄除けの御守鈴を作り参拝者の求めにより授与している。

社頭掲示板



蜂田神社

当社の起源は古く、延喜式内社です。当地を原籍とする蜂田連の祖天児屋根命を主祭神として祀っています。
当社は、現在地より西1丁余りの山麓に鎮座していましたが、永禄11年(1568)の三好衆対松永勢の家原城攻防が原因で、現在地に遷宮したと伝えられています。近世では、西林寺を併有していましたが、明治の神仏分離令により西林寺は廃寺となりました。なお、明治政府の神社合祀策によって、明治43年(1910)、付近の村社6社と無格社2社を合祀しました。
当社が通称「鈴の宮」と呼ばれるのは、蜂田連が土焼きの鈴12個を作り、毎年春の初めに神前に供え、鈴音の良し悪しでその年の吉凶を占ったという古事によるものです。
近年は、境内の土を使って12種の占い鈴を作り、節分の日に、古式どおりの鈴占いを行うほか、開運厄除の御守鈴を作り参拝者の求めにより授与しています。

社頭掲示板



蜂田神社 鍬

蜂田は波知多と訓べし、和名鈔、(郷名部)蜂田、(仮字上の如し)〇祭神蜂田連祖神歟、(惣國風土記異本には、天児屋根命といふ、)○半陀郷(和泉志云、峰田今日半陀)八田寺村に在す、(同上)今天神と称す、(泉州志、式社考、)○姓氏禄、(和泉國神別)蜂田連、大中臣朝臣同祖、天児屋命之後也、
泉州志云、在平井村、」猶国人に尋ねて慥に定むべし、
神位
國内神名帳云、正四位上蜂田社前、
氏人
三代実録、貞観6年9月4日戊子、和泉国大鳥郡人民部少録正七位下蜂田連瀧雄、改本居隷左京職、

神社覈録



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