川の北岸の住宅地の中に鎮座する。 府道30号より少し西北に入ったところにある。 孝謙天皇天平勝宝4年5月(752)、殿来(とのぎ)連この宮を営み祖神の霊を枚岡神社より迎えて奉斎したという。この年太政大臣藤原武智麿がこの地に住んだので「殿来」と称したという。 中臣殿来連竹田売。藤原武智麻呂、其の子大納言・恵美押勝(仲麻呂)がこの里に居住したと伝わる。 また、古事記下巻の仁徳天皇の段に「兔寸河(ときがわ)のほとりに1本の高い樹があり、その樹の影は、朝日があたれば淡路島に届き、夕日があたれば高安山を超えた」の巨木伝説がある。 当社の西方に「富木車塚」という古墳がある。俗説では小栗判官の墓とも称しているが、この古墳の被葬者等が富木周辺の権勢者であり、その氏神として祀られたのが当社であるとも推定される。 |
由緒 「延喜式内社」。 『続日本紀』天平勝宝4年(752)の条に「中臣殿来連竹田売」と記載されています。ここにみえる中臣氏の一族である殿来連が祖先神である天児屋根命を当社に奉祀し、また、その年に太政大臣・藤原武智麻呂、その子の大納言・恵美押勝(藤原中麻呂)が相次いでこの里に来られ居住されたと伝えられています。このように、当神社は常に藤原氏一族(中臣氏)と由縁がありました。 【巨木伝説】 『古事記』下巻の仁徳天皇の段に、「兎寸河の西に一本の高い樹木があった。その樹木に朝日があたれば影は淡路島におよび、夕日があたればその影は高安山を越えた。ある日、この樹木を伐って枯野と呼ばれる船を作り、朝な夕なに淡路島の清水を汲んで、その聖水を天皇に献上した。この船が壊れてから、その廃材を焼いて塩を作り、その時、燃えない材木があったので琴を作ったところ、素晴らしい音色を発し、遠くの村里にまで響きわたった。」 この伝説の冒頭にある「兎寸河」は、当神社の東南を流れる「富木川」で、また、南北朝の戦乱時代に焼討に遭う以前は、当境内には多数の楠の巨木がそびえていたらしく、多くの焼株の発掘で確認されています。この事から、古来、富木村に船を作る為の楠の巨木が豊富に茂っていたことが想像できます。 また、遠い昔、海岸線は当神社に接近していたと考えられ、それは、当氏地の大園遺跡の発掘物の中に多数の漁具類が存在した事からもわかります。 以上の事から、古代において、当神社には楠の巨木が茂り、海岸線が接近して、前掲の仁徳天皇記の記載が示すように、淡路島の清水を汲んで高津の宮に帰ってくる時には、そのそびえる楠の巨木が船路の遠くから目印になったのでしょう。現在も当神社にはその名残の楠があり、御神木として崇められています。 【太陽信仰】 遠い昔、古代国家の黎明期、揚子江南部地域から朝鮮を経て伝わったといわれる稲作農業にとって、一番大切なのは太陽と水の恵みでした。太陽信仰はその稲作農民が太陽を崇める事により始まり、太陽は神として信仰されるようになりました。 「とのぎ」という言葉は古代の太陽信仰と密接なつながりがあり、古代朝鮮の新羅語では「日の出・朝日」を意味するといいます。巨木伝説の説話で巨木の影がさしたといわれる高安山の頂上に立てば、当神社の方角に冬至の太陽が沈みます。当神社の側からみると、高安山の頂上に夏至の「日の出」を拝む事になります。この冬至の日は、一年のうちで最も日中の時間が短く、太陽の活力が弱まっています。そしてこの日を境にして、太陽の活力は夏至の日に向かって盛り返すのです。 等乃伎神社では、この冬至の日に太陽の恵みの復活を祈って重要な祭が行われ、夏至の日に太陽の恵みに感謝して祭が行われたと伝えられています。このように、当神社は太陽祭祀の重要な場所であったのです。 【御鎮座】 当神社は現在、高石市の取石2丁目(富木)に鎮座される取石・西取石・綾園加茂地区の氏神様で、古くは和泉国大鳥郡の富木村・市場村(綾井)・南出村(綾井)・大園村・土生村・新家村のそれぞれの氏神様として祀られてきましたが、明治41年1月、稲荷神社(市場村)・明治42年1月、壷神社(大園村)・菅原神社(土生村)・大歳神社(新家村)・明治42年2月、延喜式内社の大歳神社(南出村)の五社が当神社に合祀され旧泉北郡取石村一村の氏神様となりました。 その後の町村合併で、昭和28年高石町と合併し、更に昭和41年には高石市となり、当神社は、奇しくも高石市の東北に鎮座される鬼門の守護神ともなりました。 古来、地元の人々に親しまれた「とのぎ」「はぶ」「しんけ」「あやい」「おおぞの」という地名が地図の上から失われた事は愛惜の念一入です。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
等乃伎神社 等乃伎神社は、古代よりこの地に祀られています。 古い歴史があることは、「延喜式」の神名帳に名が記されています。 そして、この土地には「殿来連」という氏族が居住したことが。「続日本記」にも書かれています。また、古事記にも記録されています。 仁徳天皇の時代に「兎寸河」の西に1本の巨大な樹があり、朝日を受けるとその影が淡路島に達し、夕日を受けるとその影は高安山を越える程であった。この巨樹から船を造ったところ、速度が速く「枯野」と名が付けられ、淡路島より天皇の使われる水を運んだといわれています。巨木伝説のひとつです。 社頭掲示板 |
等乃伎神社 式内 等乃伎神社縁起 ●古事記下巻仁徳天皇(313−399)の段に記載されている兎寸河(ときがわ)のほとりの巨木説話からごの地が、古く先史時代の樹霊信仰と、高安山から昇る夏至の朝日を祭る弥生時代の農耕氏族の祭祀場、つまり太陽信仰の聖地であったとされています。 ●その後、奈良時代の天平勝宝4年(752)5月、古代祭祀を司る中臣氏の一族、殿来連(とのきのむらじ)竹田売が祖神天児屋根命をこの地に奉祀し、大政大臣藤原武智麻呂、その子大納言恵美押勝(藤原仲麻呂)が相次いでこの里に来住したと伝えられています。 社頭掲示板 |
等乃伎神社 古事記下巻 仁徳天皇(313−399) 此の御世に、免寸河(富木川)の西に一高樹ありけり、その樹の影は、朝日に当たれば、淡路島におよび、夕日に当たれば、高安山を越えき、故、この樹を切りて船を作りしに、いと疾く行く船なりけり、時にその船を名づけて、枯野といひき、故、この船をもちて、朝夕に淡道島の寒泉を汲みて、大御水に奉りき、この船の破壊れたるを以ちて、塩を焼き、その焼け残る木を取りて、琴に作りしに、その音、七里に響けり、かれ歌ひしく、 加良奴哀(からのを) 志本尓夜岐(しほにやき) 斯賀阿麻理(しがあまり) 許登尓都久理(ことにつくり) 賀岐比久夜(かきひくや) 由良能斗能(ゆらのとの) 斗那賀能伊久理尓布礼多郡(となかのいくりにふれたつ) 那豆能記能(なづのきの) 佐液佐夜(さやさや) 訳・枯野(船名)を焼いて塩を作り、その焼け残りの木で琴を創って、掻き鳴らすと、(その音は)由良の海峡の海中の岩に生えて、ゆらゆら揺れている海草のように、さやさやと響くよ (土橋寛) 此は志郡歌の歌ひ返しなり、 この天皇(仁徳)の御年、八十二才、御陵は毛受の耳原に在り、 社頭掲示板 |
等乃伎神社 鍬靭 等乃伎は假字也○祭神殿來連祖神、(泉州志、式社考、〇風土記異本には、天児屋根命といふ、)○大鳥郷富木村に在す、(和泉志、)今天神と称す、(泉州志、式社考、)〇姓氏録、(和泉国神別)殿來連、大中臣同祖、天児屋根命之後也、 神位 國内神各帳云、從五位上殿來社、 氏人 続日本紀、天平勝宝4年5月庚中、無位中臣殿來連竹田売授外從五位下、 神社覈録 |