船待神社
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   【延喜式神名帳】生国神社 鍬靫 和泉国 大鳥郡鎮座

   【現社名】船待神社
   【住所】大阪府堺市堺区西湊町1-2-18
       北緯34度34分8秒,東経135度27分54秒
   【祭神】天穗日命 菅原道真
   【例祭】9月14日 秋季例大祭
   【社格】
   【由緒】昌泰4年(901)菅原道真が左遷により大宰府に赴く途中天穂日命の祠に参詣
       長保3年(1002)菅原朝臣為紀が天穂日命の社に道真を合祀し、船待天神社と改称

   【関係氏族】
   【鎮座地】元塩穴郷にあり塩穴天神社といわれた
        寛治年中に塩穴郷より今の湊の地に再建された

   【祭祀対象】天神としての信仰が長い
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿・斎館・社務所

   【境内社】多くある
   【神宮寺】安楽院。明治初年の神仏分離で廃寺となっている。


街中、平地の神社。式社の表示はない。式内生国神社との関連や、いかなる理由から論社とされているかなど全く不詳である。


由緒

当神社は元塩穴郷にあり塩穴天神社といわれ天穂日命を祀る。その後延喜元年1月(人皇第六十代醍醐天皇の御代)菅原道真公が太宰府へ下る途中河内道明寺を経てこの地に来たり船を待つ間この地に祀られてあった菅原道真公の遠い先祖に当たる天穂日命の祠に参拝し松の樹を植えて出発した。その後長保3年1月15日(一条天皇の御代)菅原朝臣為紀という人がこの地に来たときに残した種々の跡を調べ官にお願いして天穂日命の社に菅原道真公を合祀し船待天神社と改めた。その後寛治年中に塩穴郷より今の湊の地に再建されたものである。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




船待神社

祭神は、天穂日命・菅原道真を主神とし、末社に琴平神社・春日神社・豊倉稲荷神社・瘡神社等を配祀しています。
当社の縁起によると、当初は塩穴(しおあな)天神と称し塩穴郷にあり菅原道真公が九州太宰府に流される途中船を待つ間、道真公の遠い祖先に当る当社祭神の天穂日命を祀る祠に参拝し松・榎数株を植えて太宰府へ旅立ちました。長保3年(1001)1月15日道真公の子孫菅原為紀ど言う人がこの地に来て、祖先の残した旧跡を種々調査し、官に願い出て菅原道真公を合祀し船待天神社と改称しました。その後寛治年中(1087〜1093年)に塩穴郷よりこの地に神社を移し村の産土神として再建しました。
当時安楽院と言う寺院も一緒に祀ていましたが、明治の神仏分離の制度によって同院は廃止しました。
明治40年(1907)11月5日湊村宇中筋に鎮座の少彦名命を祀る村社瘡神社を合祀しました。
堺市

社頭掲示板



瘡神社

敏達天皇14年3月、瘡疾流(あまね)く行り、死者国内に充盈つ、瘡を患む者は、身焼かれ打たれ摧かるる如く、啼泣して死す。依って村民相議り本邦医薬禁厭の祖神、少彦名神を鎮斎し、祭祀を営み神前に祈願す、霊験の灼然なる瘡患忽ちにして息む。と社記に伝えている。
全国の神社仏閣に於いて行われている如く、素朴な信仰の心から生ずる小顔の絵馬の受納と言う事は、当神社に於いてもいつの昔からか行われている。当神社の絵馬には主として牛を書いたものと、馬を書いたものとの二つの種類がある。
牛の絵馬は生草を喰うと言うところから最初の祈願のさいに拝受して帰る。馬の絵馬は枯れ草を食うという意味からお礼参りの時に牛の絵馬に添えて納めて帰る慣例になっている。
昔は神社の附近の駄菓子屋などの店先に沢山つりさげて売って居ったが、時代の推移につれて現今はそんな家は一軒もない。
泥絵の具で書いた雅拙な民芸品は見たくとも無いようになった。今回、当神社崇敬者の内の郷土趣味ゆたかな人々から、昔の張りぼてや木板の絵馬にかえて、川崎巨泉画伯の図案によって陶工第十四代湊焼当主の製作にかかる土製の絵馬を寄附せられたので、神社に於いては之れを頒布することにした。

社頭掲示板



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