美木多学校の東に隣接している。周囲は新興の住宅地である。 社名は民直(みたみのあたい)がその祖神を祀ったことによる。 鎮座地は古来変わっていないと見られる。 楠木氏の一党であり、泉州和田谷の名家和田氏と深い関係ががあった。 江戸時代には「牛頭天王社」と称され、紀州高野山宝光院末寺の得泉寺を神宮寺とし、神官と社僧が社務を行っていた。明治初年の廃仏毀釈により、同寺の伽藍は失われた。 境内の「しりぶかがし」社叢は大阪府指定天然記念物となっている。 |
由緒 美多弥神社は、平安期(794年〜)、醍醐天皇時代に作成された神社戸籍簿の延喜式神名帳に記載されている由緒ある式内神社であります。鎌倉時代の永仁2年(1294年)、和田家古文書の沙弥性蓮処分状によると既に神社で流鏑馬の行事が行なわれていたと記載されています。南北朝時代には楠木正成の守護神として崇められ広大な境内に大樹が生い茂り堂々とした神社でありました。太平記によると、足利尊氏の執事、高師直、師泰の軍と四条畷の戦いで楠木正行と共に戦った和田新兵衛、和田賢秀は当地美木多の和田家の祖である。1500年代には、美多弥神社の境内に、得泉寺があり、織田信長の加護を受け紋を織田家の五瓜と定め現在に至る。しかし、天正5年(1577年)、和歌山の雑賀衆制圧のために兵を起こした織田信長軍に近くの放光寺とともに神社は焼かれた。安土桃山時代の文禄元年(1592年)楠木一族の和田六右衛門が菊水の紋(楠氏の紋)が入った燈篭一対を奉納された。神社本殿は、明治時代に新しく建てられ、拝殿他は昭和47年修改築す。昭和48年、境内のシリブカカシ(いっちん)が、天然記念物に指定され、平成2年大阪府の緑の百選に選ばれる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
大阪府指定天然記念物 美多弥神社のしりぶかがし社叢 ▼所在地:鴨谷台1丁49−1 ▼所有者:美多弥神社 ▼指定年月日:昭和48年3月30日指定 ▼説明 美多弥(みたみ)神社は、泉北(せんぼく)ニュータウン光明池(こうみょういけ)地区の住宅街の中にあります。ここには「しりぶかがし」が多く繁茂する社叢(しゃそう)が広く緑をたたえ、他に「くす」「さかき」「あらかし」などの照葉樹林(しょうようじゅりん)の姿もみえます。 「しりぶかがし」はブナ科マテバシイ属の常緑中高木で、近畿地方以南から台湾・中国大陸南部に分布し、以前は泉北丘陵にも比較的多く分布していたようです。秋には堅果が成熟し、この下部の中央がやや三角状に深くえぐれることから「尻深(しりぶか)」の名がつきました。 社叢に百本近くを数えるこの森は、造成前の泉北丘陵の原植生を知る貴重な手がかりを与えてくれます。 *社叢………「やしろのもり」のこと。鎮守の森。 社頭掲示板 |
美多弥の宮由緒 鎮座地 堺市美木多上120番地 往古の事跡遊休にして詳らかならねど醍醐天皇の(約1000年前)延喜式神名帳(神社の戸籍)にはすでに式内社として登載せられている。後醍醐天皇の御代には3万坪を有する広大なる境内にには大樹生いしげる堂々たる社にして商工業繁栄の福の神として朝野の信仰特に厚く又楠正成一族の守護神でありしが天正年中(約380年前)織田信長の兵火にかかり炎上その後文禄元年(約350年前)楠氏の遺族和田道讃本殿を再建せり現在の本殿と拝殿は昭和47年改築す。 境内の自然林(シリブカガシの森)天然記念物に指定 社頭掲示板 |
美多弥神社 祭神は、天児屋根命・熊野大神 ・厳島大神・大国主命・菅原大神・八幡大神・琴平大神・素盞鳴男命・天水分大神を祭る。 当社の歴史は詳らかではないが、延喜式神名帳にも記されている古社である。天正年中織田信長の兵火にかかり焼失したが、文禄元年(1592)に至り和田道讃が本殿を再建した。近世では神仏混淆となり牛頭天王と改称、神宮寺(得泉寺)と宮座もあって、宮座の長老が寺の僧侶と共に社務を掌握していた。 その後神仏分離令により寺を廃止し、社名も八坂神社と改称神官が奉職する事になったが、明治の神社合祀策により同40年(1907)に付近の村社5社と無格社3社を合祀し社名も旧に復した。 社叢は8,250uあり、しりぶかがし・あらかし・楠・榊等の樹林が広がっている。しりぶかがしはブナ科の常緑樹で丘陵地などに生育するが、このように100本近くの樹林を形成する例は希である。また分布上でも西日本に多いこの樹林の東限近くにあたる為に昭和48年(1973)3月30日大阪府の天然記念物に指定された。 堺市 社頭掲示板 |
美多彌神社 美多彌神社は延喜5年(905年)醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め延長5年(927年)に完成した『延喜式』の九巻・十巻『延喜式神名帳』にその名を連ねる式内社であり、和田郷(にぎたのさと・令制国の和泉国北部に由来する地域名所で現在の大阪府南部中央に位置する)の郷氏神として崇められ、御祭神には中臣氏(藤原氏)の祖先神である、天児屋根命(あめのこやねのみこと)を奉祀し、明治時代の神社合祀により、須佐之男命・菅原道真公・天之水分大神・厳島神・大国主大神・熊野大神・琴平大神・八幡大神を合わせ祀っております。 当神社の社名の由来は平安時代初期の弘仁6年(815年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑『新撰姓氏録』『和泉国神別条』に記載されている『民直(みたみのあたい)』からとされております。民直氏族は「天児屋根命の後裔とされ、民(みたみ)は美多彌(みたみ)と訓を正す」と記されています。天児屋根命を祭神とし、社名の起こる由縁であります。 民直小鮪(みたみのあたいおしび=生没年不明)は、飛鳥時代の人物で、壬申の乱(672年)の時、大海人皇子(天武天皇)側につき、河内から倭(大和)に来る敵を防いで連戦しました。民直小鮪はこの後も大友吹負のもとで戦ったと考えられますが、その様子は日本書紀には現れません。また民直氏族は天武天皇側の人物史に民直大史なる人物と記されています。 またその神奈備(かんなび=神霊の鎮まる場所で特に神聖な森や山を指す。古代では常設の社殿は存在せず祭場となる特定の場所が聖域として区別されていた)は神聖で立派な木々が多く繁っていた事から『王森』と呼ばれ、後醍醐天皇の御代には三万坪にもわたる広大な境内を持ち社頭輪奐(建物の壮大華麗な様)を極めたる神社であったと言われています。 公式HP |
美多彌神社 美多彌は假字也〇祭神天穂日命、(風土記)○和田郷上村(城内有放光寺)に在す、(和泉志、式社考、)○総國風土記第四云、美多彌郷、(日根郡の末にあるは錯乱也)云々、有神號美多彌社、所祭天穂日命也、 類社 因幡國法美郡美嘆神社、出雲國出雲郡美談神社 連胤按るに、各國祭神おなじからず、ただ同名を挙る事例の如し、 神社覈録 |