住宅地の中に鎮座する。叢林はこんもりしている。 式社名はおおとり神社であり、大鳥五社明神の一社として、本社である名神大社の「大鳥神社」と区別するため、ただ「鍬靱社」と略称していたようである。また明治6年5月15日に「大鳥北浜神社」と改称する以前は、「大鳥浜神社」と称していたので、ある時期には延喜式内社の大鳥浜神社と混同していた。 当社を延喜式内社の大鳥浜神社に比定する説もある。 |
大鳥北浜神社 謹按大鳥北濱神社爲大鳥五社之一祀亭盖自大古始至文武天皇慶雲三年勅使菅生朝臣小村造営社殿奉幣帛祀典益粛考延喜式神名帳記載大鳥神社鍬靱後曰大鳥神社西下村鎭座言做所摂之社焉明治六年教部省改称大鳥北濱神社以其位置大鳥濱神社之北方故令也伴興亜之盛運彌仰神徳之崇高者也 昭和15年11月寺田楢一建之 社号標の裏面 |
大鳥神社 鍬靱 大鳥は前に同じ、〇祭神吉備穴戸媛、(式社考引用社家説)○西下村に在す、(和泉志、式社考、)〇日本紀、景行天皇51年8月、初日本武尊娶両道入姫皇女為妃、又妃吉備武彦之女、吉備穴武媛、次妃穂積氏忍山宿禰之女、弟橘媛、 連胤按るに、当社に前妃穴戸部媛を井瀬社に後妃弟橘媛を祭れるなるべし、そもそも当社大鳥とのみにては、一宮に紛らはしければ、若くは大鳥某神社とありし云々の字の脱たるにやあらむと思へど、既く國内神名帳を記せし頃、大烏鍬靱神社と唱へたりと見ゆれぱ、然るにあらず、又按るに、大鳥濱神社は両道入姫皇女なるべし、されば三社共に日本武尊の妃神に坐り、はた國内神名帳の首に戴せて、三社甲乙なく從三位なれば、それにつきてかく思ふにこそ、 神位 国内神名帳云、從三位大鳴鍬靱社、 社地 神田 大鳥社流記云、(泉州志引用)坐下神里五六坪原里十二三坪、神田四段勅施入、葦田正里三坪内、御狩庭野四所、字西原、南原、葛原、伊勢沼原 神社覈録 |