土肥港南東の街中に鎮座する。 昔は、神社の前方は海の近くまで全部水田で、温泉の温水を引いて水田を作るので、旧六月には稻が早く収穫されたという。 これを古より朝廷に献じたため稻宮の称があるという。 |
上り御新米の由緒 水口若狭守秀次なるもの、郷土開発のため敬神に勧農に大に尽捧する処あり、自家奉祀の神明社の南側に湧出する微温湯に、正月初頃試に稻種を浸し、その発育をまちて社前に設けられたる神饌田に移植するに、水温適し、霜雪虫害の患もなく発育し、結実良好、土用前に黄熟す、故に此の稻種を「雪の下」と称し、この新穀を以て、歳々の祭祀を嚴修し、神徳の発揚につとめた。 慶長の初、時の代官の認むる処となり「御新米」と称し、徳川家に献納の榮に浴すること」なつたと傳ふ。この御新米献納は、一の嚴格なる格式を備へ、一郷の重要なる年中行事となつたが、明治7年に至りて上納の儀は廃止せられた。 式内社調査報告 |
稻宮命神社 稻宮は伊奈美夜と訓べし○祭神明か也○君澤郡土肥村に在す、今神明と称す、(志)例祭月日、 伊豆志に、古社ニシテ末社多シ、社辺ノ稻六月ノ初ニ熟ス、故ニ稻宮ト云フカ、 神社覈録 |