切り通しの崖の上に鎮座する。 現在地の北側を大田子、南側を井田子と大字名を称した。そして大田子には多胡神社(旧称八幡神社)が、井田子には三島明神が各々鎭座したが、明治14年12月合之浦に社殿を造営、合祀した。 八幡神社には別当寺として珠泉庵があった。 |
多胡神社 鎮座地 西伊豆町田子1100番地の1 御祭神 積羽八重重事代主大神 多胡若宮大神・八幡大神 例祭日 11月2日 由錯 えびすさま、はちまんさまといわれ、千年前からおまつりされていた、三島明神(事代主神)は、始めは元宮に、後に飯盛山の地に、八幡社は、大田子山崎の地に鎮座され、明治14年12月、合併されて、現在地合ノ浦に神殿を造営鎮座された。 他に、神明社(天照大神)山神社(大山祇神)天神社(菅原道真命)天玉社(須佐之男命)稲荷社等おまつりしてある。 社頭掲示板 |
明応東海地震 明応東海地震(1498)による静岡県沿岸の津波被害,および浸水標高について 4.2 西伊豆町大田子 仁科から北へ約3 kmのところに西伊豆町田子の枝郷である大田子の集落がある。ここの海岸付近に多胡神社がある。その棟札に文亀3年(1503)のものがあり,『静岡県史 資料編7 中世3』(1994,U2-14)に表の面の解読文が掲載されている。棟札の中央に「奉勧請八幡大菩薩若宮大権現当社大多胡鎮守再興願」とあり,右から左にかけて記されている小字4 行を解読すると「大日本国伊豆州仁科多胡郷住人中興願主山本大良右衛門尉(中略)仁科大工九良右衛門尉次両郷,以助成,如此再興津波以後宜当社成就大多胡神社,時文亀参歳六月念八日」とある。また裏面には「ヤツノ谷,流レ久シク イニシヘモ 今モアマネク ヤドル月影」の和歌一首がしるされている。5 年前の明応東海地震の津波で集落全体が流され,5 年後に漸く復興がなって,念願かなって神社が再建された,というのであろう。なお,大田子の集落は,八個の谷筋に市街地の位置がまたがっている。和歌の冒頭の「ヤツノ谷」は,つまり大田子全体を指すのであろう。大田子では津波の浸水標高は 測定はしなかった。西伊豆町発行の2,500 分の一地形図を参考として,現在の大田子の市街地の広がりと,ここで,集落全体は滅亡した事実を考慮して,津波浸水標高はおおざっぱに10 m ほどであったと見られる。代表位置は,あえて海岸線付近に取らず,「ヤツノ谷」の中心点として北緯34 度48 分39 秒,東経138 度46 分9.2 秒とする。 津波工学研究報告第 30 号 |
たご神社 たご神社は合の浦と称するところに社殿が設けられている。この社地は、田子漁港を二分するように陸地の突出をみる箇所で、まさに合の浦の名称にふさわしい。 旧田子村はこの合の浦を境にして北側を大田子、南側を井田子と大字名を称した。大田子にはたご神社(旧称八幡神社)が、井田子には三島神社が各々鎮座したが、明治9年4月合併許可を得、同14年12月この合の浦の地に社殿を造営した。 式内社で、祭神は積羽八重事代主大神、たご若宮大神と広幡八幡大神が祖殿に奉祀されている。特記すべきことは、若宮大神のことを三島大神の御子神との堆量が強されていることである。又、境内神社として、山神社、琴平社、天神社、神明社の四社を本殿の両脇に祀ってある。例祭日は11月2日である。ほかに1月20日のエビス講、1月、10月の16日に山神講、毎月1日、15日には神明講がある。 神社境内には御衣黄と呼ばれる桜が4本ある。この桜は染井吉野のあとに咲く八重桜で、花の色は緑色から黄緑色、ピンクに変り、花弁のまま散る。 西伊豆町HP |
哆胡神社 哆胡は假字也○祭神詳ならず○大田子村に在す、(国図志)、例祭 伊豆志に、両扉右ハ八幡、左(若宮、文瓶癸亥ノ棟札云、太郎右衛門津波以後成就、当社大多胡鎭守神社トアリ、と云り、 神位 国内神階記云、從四位上多胡の明神、 神社覈録 |