「イナ」は地名で、造船に関する部民 新羅渡来人の猪名部がこの地を「イナ」と名付け、伊那上神社・伊那下神社を奉祀した。 元は社殿なく牛原山を神域として山嶺三本松という所を中心として崇拝した、岩境残ると云う。今も境内に「神明水の泉」があり多く人々が汲みに来ている。 当社を式内仲大歳神社に比定する説あるが不詳。 別名を石火宮と称していたといい、式内社伊志夫神社に比定する説もある。 |
伊部下神社と親子いちょう この神社は彦火火出見尊(産業守護)、住吉三柱大神(航海守護)を祭神とし、延喜式内の古い神社で、源頼朝寄進と伝えられる国宝松藤双鎗鶴鏡や、県文化財指定、金山奉行大久保石見守寄進の青銅金鍍金製釣燈籠を蔵しています。 この伊部下神社の境内にある県指定天然記念物の大いちょうは、目通り8m、枝張り25m、樹高22mで樹令約1000年といわれ、他の2本と合せ古来親子いちょうと称せられています。 秋には黄葉し、沖行く船が目標にしていたと言われています。 花とロマンの里 松崎町 社頭掲示板 |
伊那下神社 静岡縣伊豆國賀茂郡松崎町牛原山 郷社 伊那下神社 祭神 四座 彦火火出見尊(産業守護 石火宮の祭神) 住吉三柱大神(航海守護 唐大明神の祭神) 勧請 世界各国皆村落の基点は水と泉にあり水は正に村落発生の原則的要素なり、岩科村を一貫せる岩科川の下流港口に生せし寄洲の要地松崎の牛原山は麓に真清水滾々として湧出し石火郷と那賀郷の境界にてまた那賀那と石火郷に出入する関門なるが故に往古は大山砥神の系統なる磐長姫命の一派石火族棲息し火は萬物を生育するといふ古代民族の志想により石火神を祀り元は社殿なく牛原山を神域とし山嶺三本松といヘる処を中心として崇拝せしが(磐境の跡今猶残存す)年代の久しき土地の発展に伴なひ産業の守護神彦火火出見尊を石火宮(岩科村石部伊志夫紳社と異なる)と称へ祀るに至れり。其当時社前は港口に臨み山岳は周辺を囲ひ西北の一方のみ海に通じ風波を避くる唯一の良港なりしを以て航海者は今の濱町即ち宮原に船を繋ぎ神地の清泉を掬み或は風浪を避け航海安全を祈り漁者は海の幸を乞ひ農家は生産の豊かを祈り朝な夕なに神験を乞祈奉りき山腹の姥ケ処、龍ケ谷、老ケ峡等由緒あり。 社號の起因 建暦元年の文書に、仁科庄松崎とあり、仁科は西伊那にあらざるか。松崎町を流るゝ那賀川の水源地婆裟羅嶺は東方稻生澤郷を貫きて下田港に注げる稲生澤川の水源地なり。この地方総て考ふべし。然して伊那とは、新羅の帰化人造船術に巧妙なる良匠猪名部、同種族と共に來りて船舶の建造に尽粋せしを以て、猪名部の集落を猪名といひ、変して伊那となり、港湾を伊那湾と呼び、伊那湾周辺地の下方にある當神社を伊那下神社と称するは吾国神祇史の定則に適へりといふ。 由緒 神功皇后新羅御征討の時彼國人皇后の御船を守護し奉りて彼國より帰へり長門の豊浦に留まり後此地に來り住吉三柱大神の荒魂を鎭め祀り唐大明神といふ。 延喜の朝祈年祭に國幣の典に預かり以後幾回か増位ありて神階從四位上を授け奉らる。正月、5月、9月20日祭は神道長上神祇管領卜部家より累代禰宜家森氏に本官の服装(有紋黒袍の衣冠)を着用し祭事を司るを裁可せらる。夙に源頼朝公始め武門武将の崇敬厚く数多の寄進あり、境内社愛宕神社外数社は牛原山の山脊にあり、海を隔てゝ遠く信濃、駿河、遠江の山脈を一眸に収め、四時の眺望絶佳なり。 彼國人とは神功皇后に從軍して軍船を守護したる雷臣命の子ならむ。 雷臣命は亀トに名高き伊豆のト部の祖にして伊豆のト部は國のト部と島のト部とありて亀トを以て神道を普及し、神社を建設し、祭祀を盛大にし、神祇官に往復して伊豆の國内と島の各地に延喜式内の神社を夥しく増加せしは国史に徴して明かなり。(文学博士 井上頼圀翁説) 石火宮唐大明神の一説 秦始皇帝三世孫孝武王の子功満王の子普洞王は仁徳天皇の御代に同族を諸国に分置し当地に來り養蚕織絹の業を伝播し大いに蚕桑の啓発に努めたり。故に松崎は古來國産及外國蚕種の飼育に適せるを知るベし。松崎附近の養蚕地田子に多胡明神あり、富戸に布刀主若玉命明神あり、何れも外蕃の優秀なる貴公子即ち秦氏が祀りし神社にあらざるか。秦氏は蚕桑織絹を主とし産業と理財を以て邑里を開拓し富を扶殖し小にしては共地の神社の氏子、大にしては國民の生活を向上し朝延の貢物を豊かにせし功績により名声四海に冠たり。当社の宝物古鏡に見ゆる神紋七宝繋は秦氏伶官禰襠の紋様なりといふ。功満王は遠江國榛原郡大井川畔下川根縣社敬満大明神なり。(足立鍬太郎氏説) 神木 公孫樹は雌雄太さ2丈5尺、高さ100余尺、駿河湾上10里の遠方より望み見るを得、毎年11月葉霜変じ黄雲天を掩ふ如き美観を呈し境内の一偉観なり。この親子公孫樹は昭和13年10月天然紀念物に指定せらる。 神明水 境内幽翆なる巌壁より湧出す、清例玲瓏玉を吹いて究まりなし。 古鏡 藤原氏時代、鎌倉初期室町時代の三面は何れも学界に珍重せらる。其内一面は昭和十四年七月四日文部省國宝会議に決定せらる。 古文書 石火宮には漁船二艘の黒印文書あり、里人此の文書を御差置といひ船幟を供菜幟といふ。 境内地 1116坪 風致林 壱町壱反参畝弐拾四歩 例祭 11月2日、3日、午前4時 御旅式に始まり獅子舞神輿渡御、占庭神事、式三番叟 由緒書 |
伊部下神社 神明水(しみず) 境内の渓谷断崖の石間より湧出する霊泉にして清冽珍龍□を吹きて究りなし。 近郷に稀に見る清水にして有名なり。 社頭掲示板 |
伊那下神社 式内社 伊那下神社 祭神 松崎の牛原山に神代より鎮まり居ます伊那の大神 山神 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと) 海神 住吉三柱大神(すみよしみはしらのおおかみ) 水神 龍谷水神(りゅうこくすいじん) 神徳 産業守護・交通航海守護・健康長寿・学業就職守護・手足守護・良縁成就 創建と由緒 伊那下神社 神やどる山、牛原山の麓には人の生活に欠くことのできない真水が湧き出しています。 ここは石火郷と那賀郷との境界であり、二つの郷に出入りする関門であったため、西伊豆の要地として栄えました。 かつては、大山祇神の系統である石火族が住んでいました。昔は山そのものを神をまつる場としたため社殿なく、牛原山の嶺三本松と呼ばれるところが、祭りをする自然の祭場でした。年が移り土地の発展にともない、此処に神社がもうけられ、産業の守護神でもある彦火火出見尊を石火宮とたたえて尊崇してきました。 またこの神社を俗に唐大明神と称する起源は、四世紀に新羅征討の時、この国の人が皇后の御船を守り、長門の豊浦に留まり後にこの松崎に来て、ここに唐(新羅)征討の神功皇后のゆかりの住吉三神を鎮座したためであるといわれています。 原始の頃より、山の中の祭からはじまっているので、鎮座の年代は不詳です。 平安期の延喜式という朝廷の神社名簿に「いなしりの明神」とあり、この延喜の制度に基づいて、祈年祭には国からのお供物がり、以後何度か位があがり、神階四位上といわれてきました。また正月、五月、九月二十日祭りは、朝廷の神道祭祇の卜部家より、累代のこの神社の森氏に本官の服装(有紋黒袍)を着用し祭祀を司ることを許されました。 明治6年9月村社に列し、昭和5年8月郷社となり同年には、公から例祭にお供えの出る神饌幣帛料供進社に指定されました。 また、この神社は古くから航海安全の目標とされ、漁業に携わる人は海の幸を願い、地元のみならず駿河路を行き来する旅人の信仰を集め、源頼朝をはじめ武家の崇敬も篤く、多くの寄進もありました。 社号の由来 建暦元年の文書は「仁科庄松崎」とあるのをとって、仁科は西伊那の約であるとの説。 「いな」は新羅に帰化人で造船術に巧みな猪名部一族がこの地にやって来て、船舶の建造に従事したことをもって、その集落を猪名といっていたとの説などがあります。ところが、後に伊那と変わり港湾を伊那湾と呼び、伊那湾の下方にある当社を伊那下神社と称するようになりました。 建暦元年鰹船安堵状 北条時政、伊豆国仁科荘松崎下宮の鰹船二艘の 課役を免除し、石火宮供採料に充てる。建暦元年(1211) 本書によれば、松崎下宮の鰹船二艘は今まで石火宮供採に 充てられ、武家方より運上役を免除されていたが、この安堵 状の通達に先立ち、一般的に漁船の運上役に関する調査を 行った際、地元より差し出した注進状が、如何なる故にか 之を脱落したものとみえる。 よって、元通り之を免除する ことを幕府方より通達したものであろう。 公式HP |
琉球畳表之碑の由来 寛政年間、浄感寺正観上人が西国を行脚した際、松崎村の農業振輿の為にと藺草の苗を持ち帰り栽培させ、多年草で湿地水田に適する藺草は松崎で見事に栽培に成功しました、 南国の強い太働の光と海風とにより乾燥した藺草は、艶とその製品の耐久性で一躍有名になり以来松崎表、又は浄感寺表として出荷し、農家を澗したと伝えられております。 正観上人の遺徳を称え、偲んで碑を建設したものです、 松崎町 社頭掲示板 |
伊那下神社 伊那は前に同じ、下は資母と訓べし、○祭神詳ならずO松崎村に在す、今唐(モロコシ)大明神と称す、今賀茂郡に属す、(国図志)、例祭 伊豆志に、相傳フ神功皇后新羅ヲ征シ玉ヒシ時、彼國人御船ヲ守護ジ奉リテ、長州豊浦ニ留リ、後此ニ鎭坐ス、故ニ唐大明神ト書来レリ、と云り、 神位 國内神階記云、從四位上いなしもの明神、 神社覈録 |