伊那上神社
いなかみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】伊那上神社 伊豆国 那賀郡鎮座
   【延喜式神名帳】仲神社 伊豆国 那賀郡鎮座
   【延喜式神名帳】仲大歳神社 伊豆国 那賀郡鎮座


   【現社名】伊那上神社
   【住所】 静岡県賀茂郡松崎町宮内37-1
       北緯34度45分7秒,東経138度46分56秒
   【祭神】積羽八重事代主命
   【例祭】11月2日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創立年代不詳
       弘仁8年(817)伊予三島(大山積神社)から遷座と伝
       承安3年(1173)源頼朝当社に開運祈願
       治承4年(1180)の文書に「三島宮」
       文治元年(1185)の文書に「仁科荘那賀郷三島宮」
       正中2年(1325)の文書に「三島大明神」
       『伊豆国階帳』「従四位上いなかみの明神」
       天正年間(1573−91)大火で焼失
       慶長5年(1600)徳川家康社領十五石を寄進
       正徳2年(1712)9月18日本殿正遷宮
       明治6年8月郷社
       同40年6月21日神饌幣帛料供進指定社

   【関係氏族】猪名部氏
   【鎮座地】古来この地に鎮座

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「三島宮」「三島大明神」と称していた
   【社殿】流造木皮葺
       拝殿・社務所・手水舎

   【境内社】琴平神社・稻荷神社・子安神社・津島神社

国道沿いに鎮座する。 「イナ」は地名で、造船に関する部民 新羅渡来人の猪名部がこの地を「イナ」と名付け、伊那上神社・伊那下神社を奉祀した。 創立年代は不詳であるが、嵯峨天皇の弘仁8年(817)伊予国越智郡三島(大山積神社)から遷座したとも伝わる。 長く神官を務めた金指氏は伊予国河野氏の裔にして、三島明神と共に渡來したとされている。 長く三島宮(三島大明神とも)と称されたが伊那上神社の社名も失われることなく継承されていた。 当社を式内仲神社とする説もある。
また当社を式内仲大歳神社とする説もある。


伊那上神社

所在 松崎町宮内37-1
祭神 積羽八重事代主神
創立 不詳
元社格 郷社(式内社)
境内 4415.4u (1335.68坪)
御由緒
社伝に依れば当社は第52代嵯峨天皇弘仁8年(817)伊予国越智郡三島より遷座したと伝えられ、また伊豆国国府三島より遷座したと伝えられる。
文治元年(1186)の文書に仁科荘那賀郷三島宮、正中2年の文書に三島大明神、慶長16年(1608)時の金山奉行兼伊豆代官大久保石見守が寄進した金燈籠には仲神社とほりこんである。
昔は三島大明神、三島宮または仲神社といわれたのである。
承安3年(1173)源頼朝当社に参詣され社田を寄進したのでその後は将軍家の尊崇が厚く神領五百石を領し宮殿広大壮麗末社80有余を有し西伊豆第一の大社であったが天正年間の大火に遭い時の宮司金差義長40余社を再建して従来の大社の面目を保った、続いて間もなく慶長年間に再び火災に遭い壮麗の新宮殿、本社、拝殿、社宝、旧記、等一宇も残さず全焼したが、なお二十石の御朱印地を賜ってその面影を今も伝えている。
上宮とは慶長5年(1600)の神領附の古文書が最初である次に現在の伊那上宮という名の現存しているものでは正徳2年(1712)の棟札が最初で唯一神道祭官従五位下 金指伊賀守義治が署名して豆州那賀郷大鎮守也といって従来の伊豆の大社の面目を伝えている。
当社所蔵文化財。
神像
神鏡 経塚から出土した鎌倉時代中期の和鏡
古文書 
金灯籠 大久保石見守が寄進したとの金灯籠は我が国の当代工芸美術の標本となっている貴重な文化財である。

社頭掲示板



伊那上神社

式内社で、創建は不詳とされているが、平安時代初期、弘仁2年(811年)伊予国(愛媛県)越智郡三島より遷祀したといい、また一説に弘仁8年(817年)国府三島より遷祀したとも伝えられている。
社名については平安末期文治元年(1185年)文書に、伊豆国那賀郡三島宮、慶長5年彦坂九兵衛の神領付には「松崎上宮神領分」とあり、正徳2年(1712年)の棟札に伊那上宮とある。宝暦9年(1795年)円通寺との山論(山林の境界の争い)の評定所裁決書には三嶋大明神とある。
神職金指(差)氏は、豆州志稿によると伊予国河野氏の後裔で三島明神と共に当地に来たといわれる。
日本書紀の応神天皇の巻に、新羅王が造船の匠を日本に送ったことが記されており、古い伝えでは、当地にも帰化したこの猪名部が集落を営み、産土神として、伊那上、下社を祀ったという帰化人奉祀説があり、那賀川の上、下により区別され、伊那上は三島神社の系統へ移っていったと思われる。
平安時代、延喜7年(907年)式内社に列し、伊那下神社とは相対的に存在した社であった。
鎌倉時代、「承安3年(1173年)源頼朝公参詣三島明神」と金指家過去帳にあり、のち頼朝より、社田寄進を受け、社殿宏壮で末社80有余、伊豆西海岸第一の宮であったという。
本殿内の神像6躰は、鎌倉前期の作で、同中期の神鏡「松喰双鶴鏡」は県文化財に指定されている。
安土桃山時代天正18年(1590年)の兵火で焼失したが、社司金指義長が本社と40余の祠を再建し社の面目を保持した。
江戸時代に入り慶長6年(1601年)再び火災でことごとく灰燼に帰した。金指家文書に「松崎村から出火、風強く宮内村不残類焼」とある。慶長13年(1608年)大久保長安寄進の「釣燈篭」は県指定文化財で銘文に「奉寄進豆州賀茂郡那賀神社」とあり、これは当時伊那上が社勢盛んで、那賀郷中の中心社の位置に在ったので那賀神社と銘打ったものであろうか。社領20石(内上之社15石、下之社5石)あったという。
明治6年8月、雲見から小杉原に至る11ケ村の郷社で、明治22年4月の町村合併により、松崎、岩科2ケ村の郷社、のち松崎の郷社となった。
境内には忠魂碑、西南戦争死者碑が建立されている。また町指定天然記念物の亀甲松(樹齢350年余)があったが惜しくも平成5年3月枯死した。

松崎町HP



伊那上神社

伊那は假字也、上は加美と訓べし、○祭神詳ならず○宮内村に在す、(国図志)、例祭
伊豆志ニ、神主金差氏四十八世祖河野氏、豫州ヨリ奉遷ト云フ、昔ハ大社ナリシガ、天正慶長ノ両度ノ火災ニ、旧記等迄多ク焼失ス、今所存古文書八通アリ、と云り
神位
國内神階記云、從四位上いなかみの明神、
社領
当代御朱印高十五石、下社五石、合廿石、
雑事
古文書、文治元年3月、伊豆國仁科庄那賀郷三島宮納御劔之事、右彼御劒者、薩他山御合戦之依御祈祷申、当社之御室殿え被納置者也、後見記録畢如件、駿州目代判、」正中2年3月上旬、伊豆國那賀郡三島大明神御本社大禰宜野地之事、畠一段、云々、右金指孫四郎義長所宛行也、云々、石田藤平六平高宗判、』天正14年7月6日、那賀郡三島大明神大禰宜職等之事、云々、氏光判、神主金指大炊助殿、(以上伊豆志所引)

神社覈録



郷社 伊那上神社

祭神 事代主命 旧と仲神社、又は上之神社、三島宮とも称す、創立年代詳ならず。但し、弘仁8年三島大神を分祀せりとも、伊予国より奉遷せりとも伝ふ、往昔は國内有数の大社にして、田方郡田京深澤神社寛永中文書に、伊豆五大社の一に数へられ、又伊豆日記に、上古は国府三島神社に次ぐ大社なりしが云〃と見えたり、源頼朝以来代々の将軍厚く崇敬して、社領を寄進せるが、後ち、小田原北条氏五世の間、毎年当社より神符を納めしを以て、当地より小田原に至る路次の伝馬給助のこと、伊豆名蓬志等に見えたり、天正、慶長両度の火災に社頭褒頽し、旧記又焼尽せしが、内古文書八通僅に災を免かれたり、即ち、文治元年、正中2年、天正14年、治承5年、正中2年。文和4年、応安3年、同27年、応永2年、宝徳4年の八通とす、内始の三通は、全文志に見えたり、衰へたりと雖も旧除地十五石を有せり、古来賀茂郷の総社と称せられ、明治6年8月郷社に列す。
社殿は本殿、拝殿、籠屋を具へ、境内は875坪(官有地第一種)緑樹鬱蒼たり。
豆州志、当社を式の伊那上神社に擬せしより、學者多くこれに依りしが、豆州志稿之れを否定して、式の仲神社(小社)なりとし、神階帳の從四位上おほとしの明神とせり、其説に云く。
「上之神社、式内仲神社なる可し。此地和名鈔所載那賀郵にして、当社文治元年文書に、仁科庄那賀郷三島官(其他文書同之)と記し、往昔那賀郷の総社と称す、仲、那賀、國普通ず、慶長中大久保長安寄附の金燈寵に、仲神社と鋳す、当時迄は、其称存せしを知る可し、旧説式内伊那上神社に当てたるは、上之神社の称より謬りたる也、(上之神社ハ、松崎村下之神社ニ対称セシ也、尚下之神社ノ条参観、)と、下之神社の条に云く、
「按ずるに、式内仲神社、仲大歳神社は、共に地名を以て社号に命じたるにて、同地鎮守ならむ、而して仲神社は、当社(下中神社》を距る数町宮内村の地に在りて、從来上之神社と称し、当社を下之神社と称し来れるのみならず、上之神社を、神階帳には、おほとしの明神と記せるにて、宮内の地亦大歳の称ありしを知るに足り、当社の仲大歳神社たる、疑ふ可くも非ず」
と見えたり、特選神名牒此説に賛同の意を表せり。

明治神社志料



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