右内神社
うないじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】阿米津瀬気多知命神社 伊豆国 田方郡鎮座
   【延喜式神名帳】伊波氐別命神社 伊豆国 賀茂郡鎮座

   【現社名】右内神社
   【住所】静岡県三島市梅名1
       北緯35度5分38秒,東経138度55分48秒
   【祭神】櫛石窗命
   【例祭】10月18日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】由緒不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

当社と左内神社は「三島大社御門左右ノ神」であり、三島大社の随神門として、下田街道の左右に鎮座していた。
境内に小さな池があり、「宇米都之池」の石碑がある。
梅名の地名は、梅津を意味し、宇米都は、阿米都から転じたものと考える説がある。
近くに梅名川に連なる「うなぎの池」と呼ばれる池があり、そこには三嶋大明神の使者と言われた鰻(うなぎ)が川を下って集まり、冬越えをしたと言われています。それでこの神社は「うなぎの宮」と呼ばれ、氏子(うじこ)は鰻を食べない習慣が明治の初めごろまであったと言われています。
『神名帳考証』『豆州志稿』『神社覈録』『伊豆志』では伊波氐別命神社に比定する。


右内神社

鎮座地:静岡県三島市梅名1番地
御祭神:櫛石窓命
由緒:
富士をはじめ諸峰を遠望でき、清らかな水が流れるこの地に地主神を奉斎したのが当神社の始まりと考えられるが、社伝や古記録によると、永承5(1050)年三島大社の北遷と共に賀茂の地より御門の守護神として櫛石窓命が現在の地に奉斎され、翌年には従三位という高い神階が授けられ、国家の祭祀に預かったことが伺える。
爾来、960余年に亘り三嶋大明神の伴神として隣町の左内神社と共に下田街道の要衝左右に鎮座する。
中世以降、源頼朝の尊崇を始め、地元の武将の崇敬殊に篤く神領・神宝・文書多数所有していたが、現在は文禄・慶長の古文書三通、永承年間と伝わる棟札書、慶長・正徳・宝暦・慶応・明治各年間の棟札が大切に受け継がれている。
平成24年壬辰10月吉日 三嶋大社 右内神社 宮司 矢田部正巳 撰
三嶋大社 権宮司 近藤 亘 書

社頭掲示板



梅名の伝承と史跡

頼朝公の手洗水・駒止橋
右内神社頼朝公伝説
源頼朝公は、伊豆韮山に配流されていた。
若き頃、崇敬する三島大明神に源氏再興の大願をかけ、百日参籠をする道すがら、この右内神社にもたびたび立ち寄ったと言われている。ある時、右内神社の参道に手洗水がなかったので、従者に持たせた長刀で地面を突くと、不思議にもそこから潭々ヒ清水が湧き出したと言う。
村人達はその奇蹟に驚き、語り伝えて「頼朝公手洗水」と呼ぶようになった。
また、今も在庁道(現国道136号)から分かれて神社の北側を通る道があるが、当時そこに架かっていた小さな橋のたもとで、従者の安達藤九郎が、馬を止め、水を飲ませて休ませた事から、「駒止めの橋」の名が残っている。
梅名自治会
梅名郷土史研究会

社頭掲示板



伊波氐別命神社

伊波氐は假字也、別は和氣と訓べし、○祭神明か也〇君澤郡梅名村に在す、今右内明神と称す、(志)例祭、月日、
伊豆志に、慶長9年ノ棟札ニ、天石門別又名櫛石窓亦神石窓此御門之神也トアリ、と云り、
神位
國内神階記云、從四位上いはてわけのみこ

神社覈録



右内神社

三島市梅名一番地鎮座 右内神社 祭神 櫛石窓命 由緒 富士をはじめ諸峰を遠望でき清らかな水が流れるこの地に地主神を奉斎したのが当神社の始まりと考えられるが社伝や古記録によると永承5年(1050)三嶋大社の北進と共に賀茂の地より御門の守護神として櫛石窓命が現在の地に奉斎され翌年には従三位という高い神階が授けられ国家の祭祀に預かったことが伺える 爾来九百六十余年に亘り三嶋大明神の伴神として隣町の左内神社と共に下田街道の要衡左右に鎮座する
中世以降源頼朝の尊崇を始め地元の武将の崇敬殊に篤く神領・神宝文書多数所有していたが現在は文禄慶長の古文書三通永承年間と伝わる棟札書慶長・正徳・宝暦・慶応・明治各年間の棟礼が大切に受継がれている

社頭掲示板



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