【境内社】租子社・天神社・日月社・八幡社・稻荷社・素盞鳴社・山神社
白浪之彌奈阿和命「しらなみのみなあわのみこと」神社とする。 神社は標高227mの向山を背にして集落の中央に鎮座する。前方に海をひかえ、背後に山地をもち、西には清流の大川があつて、地形上からみて古代人の居住には好適地であつた。 この地は縄文時代から歴史時代初期にわたる集落の跡であつて、古墳時代を中心とする古代の祭祀遺跡であった。 本殿の裏にある神木(梶)の根株からは祭祀遺物がおびただしく発見されており、もと地主神の石祠のそばにある大石は、神霊を迎え、その前で祭祀を行なう磐座とみられる。 |
磐座 1500年以前頃の住民が神々の降臨を仰ぎ盛大に祭典を行った場所である。 現在の社殿を造営するに当たり磐座に小祠を造り地主神の台座として保存してあった。 昭和33年8月国学院大学教授大場磐雄博士、沼津女子高等学校小野真一先生等の指導の下に当処を発掘し其の出土品を研究調査した結果白銅鏡一面祭祀用青銅鏡五面有孔円盤句王其の他各種の出土品、とりわけ祭祀用青銅鏡の発見は我が国で四番目だったと言われている依って之を記念す 昭和38年7月吉日 社頭石碑 |
多賀神社 一、 所在地 熱海市上多賀字宮脇 一、 祭神 伊弉諾尊(イザナギニミコト) 伊弉册尊(イザナミノミコト) 一、 神社名の沿革 本神社の由緒についてはあまり詳しくは解っていない 正徳年間(1711)に近江(滋賀県)の多賀神社の祭神伊弉諾尊、伊弉册尊の二神を勧請し、以後日少宮(ニノワカミヤ)と称し明治6年に多賀大明神と改称するまで160年間 日少宮と唱えられていた 一説に平安朝初期 延喜5年(905)に延喜式神名帳が制定され 宮廷の諸行事の規範とともに神社の位階を定めて延喜式内社が制定された 静岡県下における式内社は遠江国六十二社、駿河国二十二社、伊豆国九十二社となっておりその内伊豆国の田方郡は二十四座の式内社が認められている この中に上多賀の神社として白波之彌奈阿和命神社(シラナミノミナアワノミコトジンジャ)がある これは日本神社の研究書として著名な大日本史神祇志、特選神名牒、伊豆国式社考略、南豆神祇志、豆州志稿、日本地理志稿、静岡県史の七書において 上多賀の多賀神社であることを立証している かつて昔白波之彌奈阿和命神社は通称阿和神社としてまた多賀明神として縄文弥生古墳時代の祭祀遺跡のある地 宮脇の聖地に祭られ 古い伝承や神事があることなど多賀の氏神として尊崇されてきた 追記 萬寿4年(1027)6月多賀神社再建の記録が残されていた後世文政12年(1829)棟礼に往古の官殿に履殿、中殿(祝詞殿)拝殿を再造の事が明記されており、古き年代の神社再建の歴史を伝えている 祭礼縁起 往古より隔年の祭礼であったがいつの頃からか毎年(旧暦)6月28日29日に行うようになった明治初年太陽暦(新暦)に改暦するにおよんで7月28日に宵祭り、(宵官)29日に本祭りとして行われるようになり今日に至っている。 社頭石碑 |
白波之彌奈阿和命神社 白波之は志良奈美乃と訓べし、枕詞也、」彌奈阿和は假字也、○祭神明か也○シケテラ村に在す、(国図)例祭 考証云、今伊豆権現下営、去上宮五町許在海濱、故呼曰濱宮 神社覈録 |