延喜式神名帳の伊豆國田方郡の部に登載された二十四社のうち、名神大社に列せられているのは、この楊原神社ただ一社のみである。 往古は、現在地から東南東500mほど離れた、字を楊原と称した場所に鎮座していた。 天正18年(1580)に兵火のため現在地に遷した。 当社は社領500石、別当8坊、社家30余りを有する大社であったと伝わる。 楊原神社と大朝神社とは一体不可分の関係にあり、楊原神社はその当初においては、牛臥山の麓に祀る山宮の遙拝所であつたのが、後に神社として社殿を設けられるようになつたものと思われる。山宮に対する里宮である。その里宮が、だんだんとこれを祀る人たちが多くなり、社殿も社域も立派となり、完備するに伴い、大宮と称せられるようになつたのであろう。 |
由緒 鎮座地 沼津市下香貫宮脇335番地 往古の社地は今の字楊原で、永禄年中北条武田合戦の時兵禍に罹り社殿神宝等悉く焼失、其の後天正18年(1590年)現在の地に遷宮する。 祭神は大山祇命、磐長姫命、木花開耶姫命の三座を奉斎する。主神大山祇命(おおやまずみのみこと)は伊邪那岐、伊邪那美命の御子、磐長姫命(いわながひめ)木花開耶姫命(このはなさくやひめみこと)は大山祇命の御子にして左右に配祀、御祭徳は治水産業の神、特に山の神として日本一と奉賛せられております。 沿革として創立年月は不詳なれども延喜式神名帳(905年)(第60代醍醐天皇の御代有名神社書上帳)所載にして名神大とあり、大宮大明神、又香貫大明神とも称え、今は大宮様と云う。往古は神領五百石を有し、社家三十余家ありと伝えられ明治8年2月郷社に列す。上香貫、下香貫、我入道の総鎮守の神として崇敬せられている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
楊原神社 名神大 楊原は夜伎波良と訓べし○祭神大山祇命、相殿木花開耶姫、磐長姫、(志)○駿河國駿東郡香貫村に在す、今大宮、又松彦明神と称す、(同上)例祭月日、○式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、伊豆國楊原神社一座、 伊豆志に、相近キニ楊原ノ地名アリ、今訛テ八重原ト云フ、伊豆峰記ニ、三島大明神ト云へリ、中古マデ社人三十八人別当坊等アリ、今香貫両村ノ総鎮守也、古簿ニ、豆州田賀方郡楊原明神并ニ神名ヲ記ス、今君澤郡三島駅楊原ニ楊原神社アリ、コハ元和9年香貫村ナルヲ遷シマツレル也、(國図には、三島駅に在すと云り、)〇考証云、今日、伊豆権現在走湯山、傍大柳樹二、今云、赤澤村地土赤如朱砂、有社伊豆権現社僧到此修法、 神社覈録 |
郷社 楊原神社 祭神 大山祇命 石長姫命 木花開耶姫命 旧と大宮とも、松彦明神とも、三島大明神とも称す、創立年代詳ならずといへとも、式の伊豆国田方郡楊原神社は当社なりと、(是地元と伊豆に属す)、当杜が式の楊原神社なることは、豆州志に、「相近きに楊原の地名あり、今訛て八重原と」と見え、志稿之に附記して、「此地社域の東南十町許にあり、本社の旧地也と云」と見えて、學者皆之に從ひ、豆州式社考案の如きは、「豆志の論に随ふ可し」といへり、然るに新宮高平の如きは、之等と大に意見を異にし、「三島神に楊原の地名現存し、其古迹もあれば」云々といひ、式考又之れに同じといへども、特選は一言の下に「信ジガタシ」といへり、楊原神社は三代實録に、 「貞観元年正月、奉授伊豆国從五位下楊原神從五位上云々、12年5月詔、授従五位上楊原神正五位下、云々、仁和2年11月、授正五位上」 と見えたるが、後ち從一位に至らせ給へるにや、当國神階帳に「從一位やきはらの明神」と見えさせ給ふ、元と当村字柳原に鎮座あらせられ、伊豆峰記に、此神社、中古迄社人三十八、別当坊等あり、両香貫より江之浦迄共祀せしよし見えて、社頭頗る盛大なりしが、永禄年中、兵火に罹り、天正18年今の地に奉遷す、近世両香貫の総鎮守たりしが、明治8年2月郷社に列す、旧除地三石五斗二升八合ありき。 社殿は本殿、雨覆、幣殿、拝殿、其他神庫等を具へ、境内は2221坪(官有地第一種)を有す。 明治神社誌料 |