玉作を業とする人々が、祖神の玉祖命を祀つたものという。 境内のすぐ北は狩野川が流れ、東には香貫山をひかえた氾濫原の微高地に鎮座する。 『駿河志料』に「当社は狩野川の辺にありて古木生茂り、神佐備たる森なり」とある。 昭和20年7月16日の沼津空襲によつて社殿その他を焼失し、さらに昭和50年8月、都市計画による境内整備で明るい神社となっている。 |
玉作神社 延喜式内玉作水神社 この神社は玉作水神社として神社名鑑に載っております。 御祭神は昔、玉作郷に住んでいた玉作部氏族の祖神玉祖命と水神水波廼女命の2座であります。 延喜式内神社として1000年以上を経た古社であり、香貫地区には楊原神社・大朝神社とともに由緒ある神社であります。 関東玉阿造郷 玉造郷は1000年以上の昔、平安朝初期に伊豆と駿河の国境として狩野川の辺り、香貫山麓一帯を指し玉造部氏族が住んでいた集落跡と言われております。 玉作部は朝廷に貢納する丸玉や服飾用の匂玉を造る職業的部民で古代において祭祀用には欠くことのできない重要な役割をもった氏族でありました。 全国に数少ない玉造郷として諸文献に記載されております。 社頭掲示板 |
玉作神社新築落成記念塔 沼津市上香貫黒瀬町六番地なる境内地が沼津市都市計画施行により区画整理にかかり境内地全面を約四尺土盛りその上に社殿及び公会堂を全面改築並びに立木を移すこととなり市との交渉を委員長に一任され諸経費として一金弐千百四拾弐萬円を捻出願いよって茲に新社殿及び公会堂を造営致しました 昭和50年7月吉日 社頭石碑 |
玉作神社 當社の境内は、大正13年、関係當局によつて.発掘されてをり、そのとき本殿の地下から玉石が約30個発見され、現在そのうち6個を本殿にまつつてゐる。また、昭和50年3月、都市計画による境内整備の折、鳥居の脚下より窪み石が数個発見されたが、この石は形状から見て玉砥の一種か、もしくは水銀朱をつくる窪み石かとも思はれる。なほ、この窪み石と本殿にまつる玉石とは無関係ではあるまい。さらにまた、昭和27年、當社の近くにある片岡春吉氏の元宅地内からは石棺三基が発見され、その中には玉類やその他の副葬品が存したといふ。 式内社調査報告 |
平作地蔵尊の由来 日本三大仇討の一 平作地蔵尊の由来 この地蔵尊はいつの頃創建されたか明らかではないが有名な浄瑠璃、「伊賀越道中、双六」に出てくる沼津の平作にゆかりの深い地蔵尊としてその名を知られている。地蔵尊の建てられている場所に昔二軒の茶屋があり主を平作と云い娘のお米(後の渡辺数馬の妻)に茶店をやらせ自分は旅人の荷担ぎを業として居りました、そして仇、河合又五郎の行方を知っている旅人十兵衛(二十数年前に別れた平作の子)に娘お米の夫渡辺数馬の為、平作は自害して、その居場所を聞ざだす 沼津千本の場面 平作決心して自害し「死にゆく仏の供養として聞かせてくれ」、と申します、十兵衛はその情に引かされ遂に明かします。 「仇河合又五郎の落ゆく先は九州相良吉田で逢うたと人の噂」と 浄瑠璃の名台調で余りにも有名です、平作のおかげで数馬の義兄荒木又右ヱ衛門の助太刀で首尾よく仇討の本懐を遂げることが出来平作爺さんの義侠心は後の人々の心を打ち茶店のあったと云う場所に一つの碑を建て地蔵尊を建立しました。 現在この地蔵尊は延命子育地蔵(通称もろこし地蔵)として長い間、土地の人々の信仰を集め例祭は毎年7月31日に新しい精霊を迎えて地元民の手で賑やかに行われております。 山王前自治会 社頭掲示板 |
玉作水神社 玉作は多末都久里と訓べし、和名鈔、(郷名部)駿河國駿河郡玉造、」○祭神水神歟○駿河國駿東郡香貫村に在す、(志)例祭 神位 國内神階記云、從四位上玉作明神、 神社覈録 |