牛臥山北東麓に鎮座する。 古くから山宮と称せられていた。古代はじめてこの付近に上陸して土地を開拓した人たちが、牛臥山の美しい山に神の山としてこれを拝祀したのが当社の起原であつたと思われる。 西に隣接して、日縮寺という日蓮宗の寺院があるが、維新前には別当寺であつた。 楊原神社とは祭祀の母体・内容とも共有しており、一体の存在と考えられている。古くは楊原神社との間には浅瀬が広がっていたと想定され、当社は海に浮かぶ小島に祀られた山宮であったと考えられている。 |
大朝神社 明治25年、楊原神社と大朝神社の両社連名で當時の静岡縣知事に提出した「社傳來旧式取調書」(本書の「楊原神社」の項参照)を読むと、毎年正月15日に両社の神輿洗之神事が海濱で行なはれ、その後両輿は一旦楊原神社に引揚げ、翌16日には両輿は揃つて大朝神社へ渡御し、ここで荘厳なる祭典が行なはれ、それがすむと楊原神社の神輿のみ同社に帰還し、17日になつて両社の神輿は御旅所に落合つて共に楊原神社へ還御するのが例であつたと記されてゐる。即ち、両社に取つて最も重要なる例祭では、両社の神輿は大朝神社の社前に揃ひ、ここで正式の祭典が行なはれ、楊原神社では行なはれてゐなかつたと認められることは、極めて注目に値するのである。これらの事情から考へると、両社は当初は山宮と里宮との関係にあり、もともと一体のものであつたのではなからうかと思はれる。つまり遠い古代の頃に、先づ山宮山(牛臥山)の近くに移り住んで最初にこの土地を拓いた人たちが、この山を神体山として崇め、その麓に神籬を設けて山霊を祀つてゐた。ところが後になり人口が増え、或は縁故を手依つて新しい移住者が渡り來つたりして、一部の者たちが奥地の方へ移り住み、新しい農地を拓くに從つて、楊原神社の旧蹟の邊に拝所を設けて遙かに山宮山を拝祀してゐたのが、後に楊原神社となつたものと考へるのである。 式内社調査報告 |
大朝神社と日蓮の津波祈祷伝承 牛臥山はかつては島であり、その後の干拓により陸続きになったと言われています。そのため、周囲には標高の低い土地が広がっています。牛臥山の東の麓にある大朝神社は潮留明神とも呼ばれ、日蓮上人が津波の被害に苦しむ住民のために祈祷したという伝承も残っています。 社頭掲示板 |
大朝神社 大朝は於保阿左と訓べし○祭神大日霊尊、(志)○駿河國駿東郡香貫村に在す、今山宮、又潮留明神と称す、(同上)例祭月日、 神社覈録 |