大仁小学校北、田京駅南に鎮座する。 社名の起こりは地名に基づくと思われる。河川が山間から急に平野に出たり、河川に支流が合流したりして川瀬が急に広くなつたところを広瀬と呼んだ。 往古は狩野川の河水が社域のすぐ傍を流れて、社域は河水のなかに島のように浮んでいたと思われる。 式内社の広瀬神社は大和国、武蔵国にもある。 三島大社は三宅島→白浜→当地→三島と遷したとの伝えがある。 伊豆国の主要なる河川である狩野川の広い瀬に臨んで、その河神を祀り、旱天に水が枯れず雨天に氾濫を起こさず、順調なる水の供給を希い、年々の農作の豊穣を祈つたのがその起原だと考えられる。 『豆州式社考案』では当社(深澤神社)を軽野神社に比定している。 |
由緒 当社は延喜式神名帳に従一位広瀬明神と有る式内社である。 その創建年月詳らかならずといえども、天平5年(733年)と伝う。古来より田中郷五ヶ村の総鎮守で社伝によれば往古社殿は金銀をちりばめ壮大にして禰宜36人、供僧6坊を置き、神領八町八反大五十歩永八十貫文を充てられ、隆盛を極めたが天正18年(1589年)豊臣秀吉の小田原征伐の際、兵火により社殿、宝物源頼朝、北条時政等の社領寄進状も焼失したと慶長元年(1596年)及び寛永10年(1633)の棟札に記されている。 所領を失いその後、伊豆国全州の勧進を以って再興され、次いで寛文、亨保、明和年間に修営がおこなわれた。慶長元年の上梁文に「福沢大明神」と有り、寛永以降は「深沢明神」と記されている。 明治6年8月郷社に列し「深沢神社」と称したが明治28年5月18日、現社号「広瀬神社」に復称し明治32年6月県社に列した。 例祭は、旧五ヶ村現田京、御門、白山堂、守木、宗光寺の五区により斎行され神輿渡御、稚児行列、式三番叟等行われ六台の山車引き回しにより勇壮な「深沢ばやし」が奏でられる。 広瀬とは、狩野川、深沢川の合流点にて瀬の広き所と伝う。 境内社 祖霊社(見目社、大楠社、若宮社、厳島社等数多く有ったが全て本殿に合祀) 特殊神事 御田植祭(7月15日)御神木「大楠」に早苗を投げ上げ枝に留まる苗の多い年は五穀豊穣とされる。 氏子 1600戸 境内 2708坪 昭和59年「神社振興対策指定神社」神社本庁 昭和60年「ふるさとの自然百選」静岡県 平成元年「天然記念物」杜 大仁町 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
大仁町指定文化財 広瀬神社の杜(森) 式内社であり、神階帳従一位広瀬の明神という。祭神は、溝杙姫命外二神。見目神社・龍爪神社など八社を合祀。祖霊社を祀っている。田方一の大社である。 社伝によれば、三島大社はその昔下田の白浜からこの地に移り、後に三島に遷祀したという。 天正18年(1591)豊臣秀吉による韮山城(北条氏)攻めの際兵火に遭い社殿ことごとく焼失している。慶長元年(1596)に再建、江戸時代には深沢神社として崇敬された。明治28年(1895)より広瀬と称える。 例大祭は、毎年11月3日に行われ、大仁町指定無形文化財の式三番が奉納される。 境内には、クスノキ・ムクノキ・ケヤキ・カヤノキ・マキノキ・スギなど多くの樹木がある。また、海浜性のヒメユズリハ・モクレイシ・トベラなど注目すべきものがある。 社頭掲示板 |
広瀬神社 伊豆の国市が実施した、市道の改良工事により、旧下田街道(明治期以降)に敷設されていた切石(縦横約一尺、長さ五尺)十数個が採取されました。 上図の中央に見える神社境内への小路を渡る橋として設置されていたものです。 明治25年の時点では、敷並べただけのものだと思われますが、広瀬神社周辺は大正9年の水害で、大きな被害を受けたとされておりますので、それ以後設置されたものはモルタルで固められておりました。 明治期の神社前の道路は、神社境内とはぼ同じ高さでありましたが、その後、約2m程盛土された折、水路と切石はそのまま地中に埋められておりました。 今回の工事で水路の改修が行われ、箱型水路を敷設する際に、発見されました。 広瀬神社の同工事に伴う改修(島居・参道)時に、一ノ島居の法面下、参道の脇、裏鳥居の階段等に再設置いたしました。 平成19年11月記 伊豆の国市三福 土屋建設(株) 社頭掲示板 |
御神木大楠と御田植神事 推定樹齢 二千五百年 神事 7月15日 広瀬神社では、古くから御田植の神事(御田植祭り)が行われている。 かっては、氏子一同が太鼓を打ち鳴らしながら、神田尻にある神饌田から早苗を採って来たが現在では当番町の人々により用意される。 この早苗を一の枝に打ち上げて、より多く枝に掛かった年は豊穣であるといわれでいる。 社頭掲示板 |
縣社 廣瀬神社 祭神 三島溝杙姫命 不詳二座 旧と深澤明神と称し、一に福澤明神とも称せしが如し、創立年代詳ならすと雖も、当社慶長元年の棟札は天平年中の創立とす、云く、 「伊豆國田方郡田中郷福澤大明神者、伊與國福田荘出世、而以人民養育誓願、現大明神、聖武天皇御宇天平年中鎮座此所給、云々」 と、古来田中五箇村の総鎮守にして、社殿宏大、寛永午甲の文書に当国五六社の一に数へられたり、神領は、北條時政以来神田八町八段五十歩(田中郷内)永八十貫文(内七十五貫文狩野組郷内五貫文三暫郷内)を領す、これより先き源頼朝神領若干寄進せりと、然に天正18年、兵焚に罹り、頼朝、時政等の神領寄進状、社殿と共に焼失せりと、慶長元年の棟札及寛永10年の棟札に見えたり、爾来所領を失ひ、伊豆全州の勧進を以て、修営の費に充てしと、即ち慶長元年全州の勧進に依りて社殿再興、次いで寛文、貞享、享保、明和年間勧進によりて修営あり、寛文9年、貞享4年、享保8年、明和9年の勤進許状を藏す、明治の初年郷社兼村社に列せられ、深澤神社と称せしが、28年中現社号に改め、同31年中縣社に昇格す。 社殿は本殿、幣殿、拝殿、其他庭屋、神樂殿、後拝所あり、境内2708坪(官有地第一種)を有し、老樹鬱蒼として、頗る幽邃の地なり、祠傍一老楠あり、周囲四丈二尺、延喜式所載の廣瀬神社は、其の当時小社に列せられ、当國神階帳には、從一位廣瀬明神と見え、國内有数の神社にして、旧説皆三島神社の摂社なる小濱の廣瀬神社(之を辮天と称す)を以て之れに充てたりしが、当國式社考証之を否定して、当社を以て式の広瀬神社とて、小濱の廣瀬を以て当社の分祠なりとす、豆州志稿及特選神名牒を賛す、豆州志稿に云く、 「式内廣瀬神社なる可し、往昔狩野川、祠傍に流れ(古川の構存す)此地に至り、深澤川、大澤川と相曾して、流域始て大を爲す、故に廣瀬と称せしならむ、大和國廣瀬神社も、初瀬佐保の二川、社邊にて合流するより其称あるが如し、現今、社西、神島村の内に廣瀬の地名存す」 然るに近世川村某、其著式社考証に、間宮村八幡を以て廣瀬神社に充て、当社を以て廣瀬神社とする説を却けて云く、 「或は廣せは、深澤神社ならんと云へども。其説受けがたし、何となれば、区域相近き深澤より、三島へ遷し奉るべき謂れあるべからず、若し遷し奉りしとする時は、旧地には只其しるしばかりを残す爲に、小祠拓こそ立て置くべけれ、今に其御神社の、却つて諸社に卓越せる大社なるべき謂れあるべからず、とにかくに深澤たるの説には随ひがたくなん」 明治神社誌料 |