伊東市役所南西に鎮座する。 この地を葛見の庄と称し、社名はその地名より起こったと考えられる。 平安末期から中世を通じて、この地の豪族伊東家の厚い保護と崇敬を受けて神成を高めてきた。 拝殿の向つて左手には、大樟が聾え立つている。 |
由緒 全国屈指の老樟が、千古の翠を湛えてそびえる、当葛見神社は、千数十年昔の延長5年に制定された「延喜式神名帳」所載の田方郡久豆弥神社に相当するとされる古社であります。往古、伊豆の東北部を葛見の庄と称し、当神社はその庄名を負い、約九百年昔、葛見の庄の初代地頭工藤祐隆公(伊東家次…伊東家の祖で伊東祐親の祖父)が守護神として、社殿を造営し、相殿に京都伏見稲荷を勧請合祀してから、伊東家の厚い崇敬と保護を受け、神威を高めてきました。 このことは、元禄10年(1697年)の棟札に、「葛見大社岡村稲荷者藤原朝臣鎌足大臣十六代後胤工藤大夫祐高公之修造也」と記されていたり、慶長15年(1610年)の棟札に、「藤原氏伊東正世公伊東郷住人鈴木近江守仰而焼失後造立」に書かれていることからも判明いたします。 明治までは、代々の領主より供米が献じられ、また岡明神と称えて、地方民の氏神として信仰されてきました。このような由緒から、明治4年、新制度に依り、旧伊東、小室村の唯一の郷社に列格されました。 近年では、当神社近くに別荘のあった(現ひまわり苑)若槻礼次郎元首相(ロンドン海軍軍縮会議全権)が、しばしば参拝に訪れました。老樟を賛える石碑(樟右手前)は、氏の寄進に依るものです。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
葛見神社の大楠 静岡県伊東市の「葛見神社の大楠」 (1999.3.10) 全国のクスの中で13位、全樹種の中でも19位の大クスで、国の天然記念物に指定されている。目通り幹周り15.0m、樹高25mで、樹齢は千数百年と言われ、静岡県の樹の中では第2位の幹周を誇る。葛見神社は伊東家の守護神とされ、このクスはご神木である。 正面から見ると、均整のとれた形であるが、裏に回ると樹の中央が大きな空洞になっていることが解る。樹がバラバラにならぬように鋼鉄製のテープで縛ってある。 http://www.asahi-net.or.jp/~it8k-kjmt/kigi/kusukzmi.htm |
葛見神社 伊東家の守護神・大樟・葛見神社 (祭神) 葛見神(不詳) 倉稲魂命(稲荷神) 大山祇命 (由緒) 全国屈指の老樟が千古の緑を湛えて神域に聳える当葛見神社は、今から凡そ千数十年昔の延長5年に制定された延喜式神名帳記載の久豆彌神社に当てられる古社であります。 往昔、伊豆の東北部を葛見の庄と称し、当神社は此の庄名を負い、約900年昔、葛見の庄の初代地頭工藤祐高公(伊東家次…伊東家の祖)が 守護神として社殿を造営し、京都伏見稲荷神を勧請合祀してから、伊東家の厚い保護を崇敬を受けて神威を高めてきました。 このことは元禄10年(1697年)の棟札に「葛見大社岡村稲荷者藤原朝臣鎌足十六代後胤工藤大夫祐高之修造也」と記されていたり、慶長15年(1610年)の棟札に「藤原氏伊東正世公伊東郷住人鈴木近守仰而焼失後造立」ということからも判明いたします。 明治迄は代々の領主から供米が献じられ、又、岡明神と称えて地方民の氏神として信仰されてきました。 このような由緒により明治6年4月新制度により、旧伊東、小室村の唯一の郷社に列格されました。 近年も伊東在住の元首相故若槻礼次郎氏の崇敬を受け、氏は老樟を讃える石碑を寄進いたしました。(大樟右手前) (例祭) 10月15日(本来は10月19日)祭礼時に奉納される神楽は「岡のカグラ」として有名で庁舎(チョウヤ)で演じられます。 二十数年間とだえていましたが、神楽保存会、青年有志により昭和59年の祭礼より復活いたしました。 (大樟) 神木の巨樟は樹間20m、樹令千数百年といわれ、本多静六林学博士の著書大日本老樹名誌では、全国第二の老樟とされ、昭和8年2月文部大臣から天然記念物に指定されました。 老樟を讃へる 勺水(日下寛識)作五言絶句 霊怪神龍に似たり 晴天雲雨起す 誰が図らむ陵谷の変 一木千古を支ふ 社頭掲示板 |
葛見神社の大クス 国指定天然記念物 葛見神社の大クス 樟(クスノキ)は、関東以南の暖地、とくに海岸に多く自生しています。 全体に佳香があり、葉は長楕円形で先端が、とがり5月頃黄白色の小花をつけ黒色小形の果実を結びます。 材は堅く、特殊の香気があり樟脳および樟脳油を作り建築材、船材として用います。 樹令約千年、目通約20mに及び全国でも有数な老樟として有名です。 指定昭和8年2月28日 伊東市教育委員会 社頭掲示板 |
久豆彌神社 久豆彌は假字也○祭神詳ならず○久寝郷岡村に在す、今賀茂郡に属す、(国図志)、 伊豆志に、元禄10年ノ棟札ニ、葛見大社岡村稻荷云々、と云り 神社覈録 |
郷社 葛見神社 祭神 不詳 相殿 倉稻魂神 旧と久須美神社とも、久寝大社とも、葛見大社とも称せり、創立年代詳ならず、古來領圭伊東家の崇敬社にしで、世々領主より毎年供米を寄進せりと、慶長15年及元禄10年の棟札を藏す、慶長の棟札に云く、 「藤原氏伊東正世公、伊東郷住人鈴木近江守に仰而、焼失後造立」 又元禄の棟札に云く、 「葛見大社岡村稲荷者、藤原朝臣鎌足大臣十六代後胤、工藤大夫祐高公之修造也」 と、明治の初社号を今の號に改め、同6年4月郷社に列せらる、 社殿は本殿、拝殿、其他庁舎、拝殿等を具備し、境内は946坪(官有地第一種)あり、祠傍古楠樹、囲五丈余のものありと。 当社を以て、式の久豆彌神社に擬するものあり、即ち豆州志、神社覈録、神祇志料、及大日本地名辞書とす、然に豆州志稿及特選神名牒は、熱海湯前神社なるべきかといへるが、豆州式社考案に至り、熱海村湯前と断定し、当社を久豆彌神社に充てたるに付て右の説をなせり。 「其の説の起れるや、伊東氏同所に住居の頃は、郷中第一繁榮なるを以て、同所を宗と久豆彌と称し、其所の神社(今葛見神社)を以て、終に久豆彌神社と呼ぶこととなりしなるべし、」 明治神社誌料 |