川沿いの小社。本殿背後は巨石というか小山となっている。 当社の祭祀の起原はこの石山にあると思われる。 本殿と背後の石山との間にはほとんど間隔がないほど狭い、最初に社殿が設けられたときには、拝殿のみで本殿はなく、その拝殿から直接石山を拝祀していたものと思われる。 三島大社が昔、伊豆半島の南部の白浜に上陸されて、今の三島の地に移られる途中、この松ケ瀬に暫く滞留されたといわれている。 応神天皇5年伊豆国に造船を科した際の造船所跡とも、船材を樹る山口祭斉行の所ともいう。 |
軽野神社 鎮座地 天城湯ケ島町松ケ瀬79 御祭神 事代主命 例祭日 10月19日 由緒 当社は延喜7年(907)の延喜式神名帳に軽野明神。伊豆国神階帳(1330頃)正四位狩野明神とあり、応神天皇5年(275)伊豆国に造船を科した際の造船所跡とも、船材を樹る山口祭斎行の場所とも云われる。この神社は又笠離明神・笠御明神とも称され古代この前を通る人々は神威を恐れて笠を卸し敬意を表したためと云う。 延喜式神名帳所載伊豆国田方郡二十四座の一社で、明治6年二十ヶ村の郷社に列せられた。 社頭掲示板 |
軽野神社の文化財 市指定文化財(歴史資料) 「狩野介の棟札」 御地頭狩野介 御大工福井七郎左衛門尉秀顕 敬白 大且那飯田中務尉泰長 鍛治三郎左衛門正信 奉修造豆州狩野庄松瀬村笠離大明神御宝殿 天文廿一年壬子霜月十五日 御代官小泉意春 本願檀那祢祇飯田惣左衛門尉泰光 合本願大河十郎左衛門吉廣 延喜式内社である軽野神社に残されている最古の棟札である。天文21年(1552)当時、伊豆の国は後北条氏の支配下にあった。 永禄2年(1559)の北条役高帳松山衆の項に狩野氏二名の名があり、松ケ瀬と小立野、日向を領していたことが記録されている。 この棟札の一行目に「狩野介」と記されているが、これは当神社南方の丘陵地に平安時代後期より本拠を構えてこの地を治めていた豪族、狩野氏に与えちれていた称号である。「介」の称号は、当時全国で八家しか与えられていなかったものであり、その点でこの棟札は、狩野氏の勢力の強大さを物語る貴重な資料でもある・ 平或元年5月9日指定 伊豆市教育委員会 社頭掲示板 |
古代船「枯野(からの)伝説と軽野神社」 『日本書紀』によると、応神天皇の頃、天皇が伊豆国に命じて船を造らせたところ長さ10丈(約30m)の巨船が完成し、その船は軽く浮かび速く走ったので、その船を枯野船と名付けたという伝承が残ります。現在、枯野船の模型が伊豆市にある昭和の森会館内に展示されています。 伊豆市湯ヶ島町松ヶ瀬に鎮座する「軽野神社」は、古代船「枯野」を造ったという伝説の地で、その際に祭られた神社と伝えられます。付近には船原・大楠という地名も残り、伊豆の山地から狩野川の水運を利用して船材(楠木)を運び出し、造船を行ったと考えられます。また、軽野(かるの)は狩野(かの)の語源とされます。 https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/2584/1/nakaizu.pdf |
輕野神社 輕野は加留能と訓べし、和名鈔、(郷名部)狩野、○祭神詳ならず○田中村に在す、(国図)例祭月日、 ○日本紀、応神天皇5年10月、科伊豆國令造船、長十丈、船既成之、試浮于海、便輕■疾行如馳、故名其船曰枯野、注云、由船輕疾名枯野、是義違焉、若謂輕野後人訛歟、 類社 近江國愛智郡輕野神社 神位 國内神階記云、正四位上狩野の明神、 神社覈録 |
郷社 軽野神社 祭神 不詳 旧と笠御明神とも称せり、創立年代詳ならず、但、応神天皇の御宇の創建にして、式の軽野神社は当社なるべしと、式の軽野神社は延喜の制小社に列せられ、神位は、神階帳に、正四位上狩野明神と見えたり、輕狩国音近し、豆州志稿に云く、 「式内軽野神社なる可し、日本紀曰、応神天皇5年冬10月、科伊豆国令、造、船云々、軽■行如馳、故名其舶曰枯野、蓋此地船材を出せし旧土にして、此社は当時の創建ならむ、和名鈔所載狩野郷即此地也、社傍に楠田の称存し、隣里に上船原、下船原の村名あり云々、行人神威を避け、笠を卸して過ぐ、故に笠卸明神と称し云々」 往古は社領を有せしと傅ふれども、徳川幕府時代は、境内僅かに除地なりしのみ、明治6年8月郷社に列す、同19年5月、社号笠卸を今の号に改む。 社殿は本殿、拝殿、其の他庁屋等を具へ、境内は698坪(官有地第一種)あり、当社祭神は古来不詳なり、但度会氏神名帳考証哀邪本王を以て之れに充て、又古老の口碑に古志三島神社と同神なり、故に祭日、祭式相同じと伝へたり。 明治神社誌料 |