三島明神の大島に置き給うた「波分の大后」(本島波浮港鎭座、式内波布比当ス神社)に二人の王子があり、一人は「太郎王子おほい所」(本島野増鎮座、式内大宮神社)、一人は「次郎の王子すくない所」(当社)とする。 近世以前の社藏史料は皆無であり、由緒等不詳である。 当社の発祥もまた、三原山を信仰封象として仰いだことに由来すると思われる。 |
波治加麻神社 ここの地名を波治ケ間または八ケ間と称している。 祭神は波知命、三宅記に云う、「王子二人まします一人を次郎の王子」とあるはこの波知命であり元禄元年(1688)の棟札に八何間大明神、元禄13年(1700)の棟札に波治竈明神と記されている。 社殿は昭和に入って建築されたものである。 「三宅記」とは室町時代に書かれたもので著者は不明。大島に関するところでは、大明神が諸龍王に命じて島々を焼出させ、「一番の島を初めの島(初島)二番の島を神集の島(神津島)三番目の島をば、島大なる故に大島と名付けた」とある。 また、五人の后の一人を大島に置いた。后の御名は、はぶの大后と申し、その腹に王子二人おわし、一人は太郎の王子大い所と申し、一人は次郎の王子少ない所と申したと言う。ここに出てくる、はぶの大后が波布比当ス神社、太郎王子(阿治古命)が大宮神社、次郎王子(波治命)が波治加麻神社のそれぞれの祭神として祀られているものである。 大島町 社頭掲示板 |
波治神社 波治は假字也○祭神詳ならず 考証に、今云初島、とあれど、さぱかりにては覚束なし、伊豆志当社の事を載せず、 神社覈録 |
郷社 波知加麻神社 祭神 大彦祇命 創建年月詳ならずと雖、豆州志稿に「波知神社大島泉津村旧称波泊竈明神社也、近地ニ波治ノ尾ト云高峰アリ、三宅記大島ニ置給フ后ノ御腹ニ王子二人マシマス一人ヲ次郎ノ王子すない所トアルハ是レナラム」と見ゆ、明治6年11月郷社に列す、社殿は本殿(拝殿兼用)一宇のみにして、境内109坪(官有地第一種)を有す。 明治神社誌料 |