社記に「1591(天正18)年、豊臣秀吉が厚木城を攻める際に、網代に軍船を出すことを命じ、網代から30艘が出船しました。 その落城の暁に、阿治古神社の祭典の神船とその奉仕者に流れ瓢箪の幕染めを許可しました。 今も慣例により神船「両宮丸」とその奉仕者は流れ瓢箪の幕染めを使っています。」とある。 往古下多賀中野中村の地に鎮座していた来宮神社は、寛文11年(1671)の「亥の満水」といわれる洪水で流され、網代宮崎の地(現在のお浜)に流れ着いたことから網代で祀ることにした、と伝承されている。(網代郷土史) |
阿治古神社 阿治古神社社記 1.御祭神 天照大神・手力男命・譽田和氣命・栲幡千千姫命 相殿 大己貴命 少彦名命 摂社 海積神社・八坂祇園天王社・稲荷社 1.創立 阿治古神社は町を開拓した人たちが鎮守として建て、その後先祖が次々に祀り伝えてきた神社でありますが、何時創建されたかは詳らかではありません。正保3年(1647)の社記を見ますと、もともと朝日山に祀られていたが現在地に遷されたとされています。 1.由緒 天正18年(1591)豊臣秀吉は小田原征伐の折、相州押切村(現在の厚木市)厚木城を攻めるため網代に軍船を出すことを命じ、当村より30艘が出船しました。厚木城が落ちた後に秀吉は賞として当神社に祭典の神船並びに神船係の奉仕者に「流れ瓢箪」(ながれふくべ)の幕染め、帯刀の着用を許しました。今も慣例によってご神船「両宮丸」とその奉仕者は流れ瓢箪印の幕染めを使用いたしております。 1.社殿 社殿は関東大震災で倒壊し、現在の社殿は大正15年7月、県費2955円の補助を受け、35000円をもって建てられました。 1.例大祭 7月19日(宵宮祭)20日(本祭り)21日(後祭り)の三日間と定められております。御例祭の奉仕者は夜も昼も一切酒を口にせず渡御祭の厳粛なことは我が国でも希です。その起源は不明ですが、享保7年(1723)の行列定格等に明確に記されています。例大祭で奉納される鹿島踊りは熱海市無形文化財に指定されています。 1.御神船「両宮丸」 豊臣秀吉が許した「流れ瓢箪」の幕染めが使用されます。また「白の吹き流し」は将軍家の御座船「安宅丸」を江戸に曳航した折、水夫として奉仕した網代漁民が浜離宮にて将軍家光の前で「舟歌」を披露した報償として徳川将軍家より許されたと伝えられています。 由緒書 |