志理太乎宜神社
しりたおぎじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】志理太乎宜神社 伊豆国 賀茂郡鎮座

   【現社名】志理太乎宜神社
   【住所】静岡県賀茂郡東伊豆町白田167-1
       北緯34度48分8秒,東経139度3分33秒
   【祭神】志理太乎宜命 五十猛命
   【例祭】10月25日 例大祭
   【社格】
   【由緒】康永2年11月再建

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「来宮神社」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

国道に面して山裾に鎮座する。
白田来神社、来宮神社とも称している。
主神に志理太乎宜命を祀るというが、このように定めたのは、さほど古くないように考えられる。


由緒

創立年代康永2年11月再建の記録あり。
往古は白田来浜神社又は来宮神社とも称した。毎年12月17日より7日間酒精進の習慣がある。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




来宮神社

白田川の右岸河口に近く、三筋山(みすじやま)から東へつづいている山塊の北東の角、海抜約20mのところ、東伊豆道路沿いに「白田来神社」こと「来宮神社」がある。
現在の境内は恐らく道路などで狭められているが、南北約20m(目測)東西約30m(目測)で、三段になっており、一ばん上の段に本殿、その次の段の西寄りに拝殿があり、ほぼ南東を向いている。道路寄りに鳥居があり、そのすぐ内側すなわち北西側に一対のイチョウの木がある。中段社殿に向かって左側に、境内社子安神社の小祠がある。そのすぐ北西側に接してイチョウの老木があり、ひこ生えもすでに大木になっている。
境内にはその他クスの木などの大木がある、境内の裏は海食崖かくすれたような山が迫っており、下生えの密な山林となっている。現在は道路や宅地で境内が変形されているが、地形的位置や老木の多いことなどからみても、古い神社を思わせるたたずまいが残ってはいるが、いわゆる古社ではなく、中世的なにおいがする。
この来宮神社の宮司を兼務している同町稲取の八幡神社宮司稲岡季男(すえお)氏・来宮神社氏子総代山本保氏などに、この神社に関するききとりをおこなった。特に稲岡季男氏からは、「先代の嚴彦(いずひこ)より兼務している。御祭神は志理太乎宜命であり、白田川をはさんで対岸の片菅神社と共に三宅島との関係が深いと聞いている。もと村社であった。御由緒書・棟札・文書等は今では何も残っていない。」との御教示をいただいた。

森谷ひろみ



神社誌

社名 志理太乎宜神社
    別称 来宮神社
祭神 志理太乎宜命
    併祀 五十猛命
例祭 10月25日
由緒 創始不詳 康永2年(1343)再建棟札ノ外棟札多数現存。覆屋内ニ二棟ノ内宮ヲ安置スル。簡素ナ流レ造リ一間社。江戸中期ノ作ト察セラレル秀作デ町ノ重要文化財デアル。
注 志理太乎宜命ハ事代主命ノ三宅島ノ丑寅ノ方ノ后佐伎多麻姫命ノ第五王子デ片菅命ノ御兄神ニアラセラレル

社頭石碑




志理太乎宣神社

(来宮神社)東伊豆町白田官後
【由緒】
康永2年(1343)再建の記録が南豆風土誌にしるされている。康永は南北朝の北朝年号で町内の神社再建では最古のもの(現神殿は大正期の建立)境内の公孫樹の古木は樹令推定300年前後と見られるが社殿の山側の枯れた公孫樹は昭和初年に朽倒したが、更に古くおそらく千年以上のものであったろう。
社殿内に安置された二棟の本殿は江戸中期の作で簡素ながら均斉のとれた流れ造りで、一流の官大工の作と推定される。それそれの本殿の社章から、「木の官」と「八幡宮」であることがわかる。
『特色】
祭神の志理太乎宣命は、三島神社祭神事代主命の五属神の一座であり、片菅神社と共に三島信仰の一環として位置づけられる。昔は、白田浜神社又は、来宮神社と称し、木の宮(来官)神社の特色である鳥精進、酒精進の行事は河津町の来宮神社と同様、現在でも12月17日から一週間氏子によって継承されている。

社頭掲示板



志理太乎宜神社

志理太乎宜は假字也O祭神素戔鳴尊、(志)○白田村に在す、(国図志)、
伊豆志に、後八幡宮ヲ配ス、貞和3年ノ棟札ニ、白田來濱神社新羅擁護神也、野州岩船山ト同神也、と云り、○伴信友云、志理太宜は白田來也、と云るは乎字の脱たる本のあるより附会せしなるべし、乎宜は下に布佐乎宜神社もあれば脱字なるべし、○又云、按素戔鳴尊新羅へ渡リ坐シ古事ニヨシアリ、と、云り

神社覈録



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