八幡宮と来宮神社とはもと別社、来宮神社の祭神が伊波久良和気命、延暦年中合祀した。 大昔、来宮の神様は、瓶にのってと神社付近の金剛津根に漂着したと言われる。この神を海岸近くの洞窟にお祀りしていた。 来宮の神は大変な酒好きで、沖を通る船を止めてはお酒を献上させたため、船人達は困った。そこで、船の見えない岡の方に遷した。 そこも少し海が見えたので、再度遷したと伝わる。 なだらかな石段の大きな社。杉林の中に鎮座している。 式内社伊波久良和気命神社ならびに伊波例命神社に比定する説がある。 |
由緒 八幡野鎮座、八幡宮来宮神社は、その創建を悠久の昔に発し、以来郷党衆庶の尊崇篤く、稲取村以北九ヶ村の総鎮守として、神威赫々今日に到った古社である。 当神社はその社名が示すように、元来は八幡宮と来宮の二神社であったが延暦年間本殿再建の折、合殿して現在の一殿両扉の形になったと伝えられる。八幡野という地名もまたこれに由来している。 八幡宮は誉田別命即ち応神天皇を祀る。神護景雲三年(769年)太宰の廟官阿曽麻呂が、一国一社と定めて正八幡宮を勧請したときの伊豆国の代表八幡宮である。 応神天皇は、大陸交渉に伴ひて大陸文化を我が国に輸入し、古代にあって日本文化興隆をはかられ、また御母、神功皇后が天皇の御幼少の時、常にお側におかれて行動なされたということからして、文化の神、母子神としての信仰がある。 来宮神社は、伊波久良別命を祀る。古来、来宮大明神と崇められた延喜式神名帳所載の古社であり、産業の振興、開運隆昌の信仰がある。 両社共、明治初年郷社に列格された。憶えば千三百年の遠き昔この小さな村にかくの如き立派な神域を造り、精神文化の基礎を築き、特殊な神事を絶ゆることなく継承し、郷土の繁栄に努力してきた先人の功績を讃え、改めて深き敬意を表したい。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
八幡宮来宮神社 八幡宮来宮神社鎮座1200年 由緒記 此の地に鎮ります八幡宮来宮神社は、その創立を悠久の昔に発し、郷党衆庶の尊崇篤く、神威赫々として今日に至った古社である。 八幡宮は誉田別命(応神天皇)を祀る、神護景雲3年大宰の廟官阿曽麻呂が一国一社と定めて正八幡宮を勧請した際の伊豆国の代表八幡宮であって明治6年郷社に列列せられた。 来宮神社は伊波久良和気命を祀り、古来来宮大明神と崇められた延喜式神名帳所載の神社である。 もとは海岸の堂の窟に祀られていたが、後に八幡宮神域に奉遷され、明治9年郷社に列せられた。 元来両社は別殿であったが、延暦年間本殿再建の際に二殿両扉の現在の姿になったと言い伝えられていて当社は一殿にして二社である。 このたび当神社御鎮座1200年大祭を斉行するに当り記念事業の一として石造大鳥居一基を奉献し、いささかその由来を記して崇敬の誠をささげ、この地平安と住民の弥栄を祈願するものである。 社頭掲示板 |
静岡県指定有形文化財 八幡宮来宮神社社殿 八幡宮来宮神社の本殿には、向かって右に八幡宮、左に来宮が祭られています。社殿は、本殿・幣殿・拝殿の三棟によって構成され、本格的な堂営建築の手法で統一されています。 平成9・10年の大修理とそれに伴う諸調査により現在の社殿は、本殿が寛政7(1795)年、拝殿が文政7(1824)年の建築であり、伊豆各地の優秀な大工職がかかわっていることが判明しました。 本殿は二間社流造、拝殿は入母屋造で、両者をつなぐ幣殿は両下造です。多くの神社建築が一間または三間の柱間となるのに対して、この本殿は二間となっている点で非常に類例の少ない形態であることが注目されます。 伊豆石製の強固な基礎に支えられ、社殿を飾る精妙な彫刻群の存在とともに江戸後期を代表する神社建築として重要です。 社頭掲示板 |
八幡宮来宮神社 八幡宮と来宮神社とはもと別社、来宮神社の祭神が伊波久良和気命、延暦年中合祀した。 大昔、来宮の神様は、瓶にのってと神社付近の金剛津根に漂着したと言われる。この神を海岸近くの洞窟にお祀りしていた。 来宮の神は大変な酒好きで、沖を通る船を止めてはお酒を献上させたため、船人達は困った。そこで、船の見えない岡の方に遷した。 そこも少し海が見えたので、再度遷したと伝わる。 なだらかな石段の大きな社。杉林の中に鎮座している。 八幡宮来宮神社 八幡宮来宮神社鎮座1200年 由緒記 此の地に鎮ります八幡宮来宮神社は、その創立を悠久の昔に発し、郷党衆庶の尊崇篤く、神威赫々として今日に至った古社である。 八幡宮は誉田別命(応神天皇)を祀る、神護景雲3年大宰の廟官阿曽麻呂が一国一社と定めて正八幡宮を勧請した際の伊豆国の代表八幡宮であって明治6年郷社に列列せられた。 来宮神社は伊波久良和気命を祀り、古来来宮大明神と崇められた延喜式神名帳所載の神社である。 もとは海岸の堂の窟に祀られていたが、後に八幡宮神域に奉遷され、明治9年郷社に列せられた。 元来両社は別殿であったが、延暦年間本殿再建の際に二殿両扉の現在の姿になったと言い伝えられていて当社は一殿にして二社である。 このたび当神社御鎮座1200年大祭を斉行するに当り記念事業の一として石造大鳥居一基を奉献し、いささかその由来を記して崇敬の誠をささげ、この地平安と住民の弥栄を祈願するものである。 公式HP |
伊波久艮和氣命神社 伊波久良和氣は假字也○祭神明か也○八幡野村に在す、(志)例祭月日、 伊豆志に、当郡八幡野村八幡宮ハ、木ノ宮ヲ配祀ス、八幡ハ上古ノ神ニシテ本宮也、木宮ハ古老相伝テ伊波久良和氣命卜云、(今ハ二ノ宮也)古代箸岸ノ時、海濱ノ岩窟ニ登ル卜、祭ノ時酒ヲ竹ノ筒ニ盛り、伊古奈姫明神社ヘオクル禮アリ、又相伝フ、往古海濱ニ神酒ヲ甕ニ満テ、11月9日ノ夜庁舎ニ神官會シケルニ、一人ノ老翁來リ、其酒チ呑ミ神官ニモ傅べ受シメテ、東雲ニ翁ハ帰リケリ、其甕今ニ存ス、亦其翁ノ伝ヘシトテ、祭祀ノ時詠ズル歌ニ「三引フ子オハマ(三返)イホリ引ノ引ヤマノシガハ引ヲ引レンケシハヲ引ハレンケシイカリイスルヨミルメノイテオワレシキスマレンゲシヤシキ引スマレンケシ 神位 國内神階記云、從四位上いはくらわけの明神、 神社覈録 |
郷社 八幡宮 來宮神社 祭神 誉田別命 伊波久良知氣命 旧と両社別殿なりしが、近年(社伝は延暦年中とせり)再建の際一祠再扇として来宮神社を八幡神社に合祀せり、御神体は、並に神鏡にあらせらる、八幡宮は地主神にて、創建年代詳ならずといへども、村名を八幡野と称し、八幡山の号、曽我物語等に見ゆるより考ふれば、甚だ旧きがごとし、来宮又創立年代詳ならずと雖も、伝へ云ふ、式の賀茂郡伊波久良和気命神社なりと。旧説は皆この伝説によりたるが、豆州志稿独り当社にあらずとし子浦の八幡神社を充てたり、然れども特選神名牒は尚旧説を賛せり、伊波久良和気命神社は、神階帳に、從四位上いはくらわけの明神と見えたり、往古は海濱の岩窟に奉斎せられたりしを、後ち八幡神社域内に移し、今は同殿に坐ませり、明治6年9月郷社に列せらる。 社殿は本殿、幣殿、拝殿、其他庁屋等を具備し、境内は1011坪(官有地第一種)あり、古来社人十三名、祭事を掌る、当社には、当社特有の祭事あり、古家諸書に散見す、今現に行ふ所左の如し、先づ庁屋の中央に、青草にて編みたる蓆を十文字に敷き其の中央に榊を立て、其の周囲に新蓆を敷き、十三名の社人之に坐す、六人の社人榊の葉を七葉宛取る、一人之に一夜造の酒をつぐ、六人之を相対して、左の神歌七返歌ふ、 いほりーのやまの、しーがーはーをーれんげーし、ははをーはーいかりーするよ、するめーのーいでを、わーれしーきーすまれんげーし、やしきーすまれんげーし、やしきーにすまーれんげーしー、 畢りて本殿に向ふ、先炬火一人、次に榊二人、次に太鼓、次神酒、次御饌、次掛魚二人、次に一番幣、次に二番より七番の幣、着するや一人幣を取りて本殿に納め、四人者竹筒の御酒を一本づゝ持ち、本殿三廻す、本殿の背後に至る、ことに「おめざめ」と称して羽目板を打つ、終りて一人この筒を取りて、本殿西方の洞穴に納む、終りて拝殿の中央に榊を立て、蓆を敷き、坐すること庁屋の時の如し、一人矢羽二本宛を八人に渡す、差したる紙を抜き取りて、之れを一人に渡し、三人にて「一宮御出で」といひて、榊を三廻し東方に向て、矢羽を撒き、「みーふねをはぬー」と三返し、次に十三人にて神歌七返歌ふ、終りて又三人先の如くす、次ぎの時は三人にて歌ひ始む、但しこの時は一宮を二宮と称ふと、此神事に用るる幣は、毎年紙一枚を加ふる制なるが、文化二年一本の幣半破損の際、其数三百六十枚迄数へしも、他は数ふる能はざりしと、必ず一年一枚なりしか否かは不明なりといへども、其の古来の神事なるや明らかなり 明治神社誌料 |