多郁富許都久和気命(たけほこつくわのみこと)を祭った武山権現は、南方の中腹にあり、鋼瓦葦の壮麗なもので、下田奉行今村伝四郎正令が深く尊崇し、社殿を修造したと伝えられている。その後いつか廃されてただ僅かにその址が残っていたが、大正四年町の大火の際この山にも飛火して、あとかたもなく焼失してしまった。 現在は柿崎の三島神社に合祀されている。 旧地は下田市武ケ浜の旅館武山荘の裏山であった、武山荘があったあたりは、現在駐車場と廃車置場になっている。 |
吉田松陰 吉田松陰(天保元年−−安政6年) 幕末の志士、文政12年8月4日、長門国萩松本村(山口県萩市)長州藩士杉百合之助常道の次男として誕生。名は矩方、通称は寅次郎、二十一回猛士と號す。母は児玉氏の出で名は瀧といった。 天保5年、五歳の時叔父吉田大助賢良の養子となり嘉永4年、江戸に出て佐久間象山に師事し洋学を研鎭した。 その燃ゆるが如き憂国の至情は宇内の大勢を探知せんとして、安政元年3月27日夜半、金子重輔と共に、ここ柿崎海岸より下田湾内に碇泊中の米旗艦ポーハタン號に搭乗し渡航を計らんとしたが、遂にその夢破れて当柿崎村の名主乎右衛門方に自首した、後江戸より萩に送られ幽閉されたが、自宅に松下村塾(安政3年7月〜5年12月)を開き尊王攘夷、討幕運動に活躍した多くの人材を育成した。 程なく安政の大獄に連座して安政6年10月27日、江戸伝馬町の獄刑場で波潤にとんだその生涯を終った、時に三十歳。 徳富蘇峰は松陰を評して「実に真誠の人なり。仮作の人にはあらざるなり」と。洵に古田松陰こそ真実一路の道を歩いた絶世のヒューマニストであった。 吉田松陰先生の形像について この形像は賀茂郡教育会が中心となって、郡下は勿論、東京、大阪、山口各方面の多くの有志の方々の浄財によって建設されのである。幕末の風雲急なる時、日本精神の象徴として日本刀を捧持して、米艦碇泊せる下田湾を睥睨する着想の下に作者が数多くの文献を漁り慎重に研究を重ねた苦心の傑作である、 建設年月日 昭和17年10月27日 建設者 加茂郡教育会 制作者 保田龍門 東京美術学校(現芸大) 紀州龍門村出身 社頭掲示板 |