東小学校南に鎮座する。 天平5年(733)9月23日の創建と伝。半島奥の山の上。集落の奥に鎮座する。道狭くわかりにくい。車は入らない。歌舞伎の伝承がある。 |
見高神社舌餅の由来 太古当村字役間野と申すところに天をも磨する老松あり、この松の根本に夜々不可思議なる牛鳴を聞く。村翁立ち寄り見れば一頭の白牛現れその背に白装束の御神体またがる。 村翁かしこみひれ伏すに神はその白牛の舌にて村翁の手をなで次に足をなで終りて村翁に告げて曰く「われは耳高大明神なり汝等自ら難思し内徳を証し得れば妙用無窮の神力を現すべし」とさとしたまいてその松の木伝いに昇天す。 村翁この有難き神宣に打ちふるえ山を下りて村中に神徳を披露す、即ち村民こぞってこゝに一祠を建立郷土の守護神氏神様と仰ぎ奉り子孫末世に至るまで大明神昇天のの日9月23日(新歴で10月23日を祭日と定め御供物に牛の舌餅と称する舌型の餅をそなえ、氏子及び崇敬者にその神徳を頒り物也。 見高神社 創立 聖武天皇天平5年9月23日 祭神 多祁伊志豆岐命 見高神社々務所 社頭掲示板 |
見高神社の神楽殿 〇式三番の奉納 見高神社では毎年10月23日に式三番が奉納されている。嘉永3年(1850)見高青年有志が江戸へ出向き、当時江戸歌舞伎の名優として声価の高かった四代目市川小団次に「式三番」を教わり、旧庁屋で奉納したのが最初であると伝えられる。 戦後久しく中断していたが伝統の郷土芸能として昭和51年に30年ぶりに復活した。 〇廻り舞台 見高神社の神楽殿は問口六間(約11m)、奥行三間半(約6.4m)、その後ろに幅四間(約7.3m)、奥行一間半(約2.7m)の楽屋か付いている。床は全部板張で中央に直径22.75尺(約6.9m)の廻り舞台がある。この神楽殿に市川小団次の養子で、やはり歌舞伎の名優市川左団次の指導により建てられたという全国的にも珍しい、芸能関係文化財である。 〇歌舞伎引幕 神楽殿には、江戸時代に使用された引幕準六枚が保存されている。その内三枚は歌舞夜名優市川小団次の寄村によるもので、残り三枚は庁屋(神楽殿)落成の祝儀として小団次の養子市川左団次から見高若者連に贈られたものである。歌舞伎座は何回かの火災で焼け、当時使用されなもので現存するものは数少なく芸能文に財として責重なものである。 昭和60年3月 河津町教育委員会 社頭掲示板 |
見高神社の三番叟と神楽殿 見高神社では毎年10月22日夜と23日の午前に神楽殿で三番叟(さんばんそう)が奉納されている。 江戸時代末頃 嘉永3年(1850)に 見高の青年たちは 当時江戸歌舞伎の名優として名高かった四代目市川小団次(見高村に縁があった)を頼って江戸に出向き、歌舞伎の見物をした。そのためか、ここの三番叟は歌舞伎の影響が強いといわれている。 三番叟が奉納される神楽殿は、は問口六間(約11m)、奥行三間半(約6.4m)、その後ろに幅四間(約7.3m)、奥行一間半(約2.7m)の楽屋がつく。床は全部板張で中央に直径22.75尺(約6.9m)の廻り舞台が仕組まれている。廻り舞台は、床下に人が入り、人力で回した。かつては この舞台で地区の人たちにより歌舞伎が上演されていたという。 現在 三番叟奉納の際使用される引幕は、江戸歌舞伎で使用された引幕で、六枚が保存されている。三枚は市川小団次の寄附によるもので、残り三枚は庁屋(神楽殿)落成の祝儀として小団次の養子市川左団次から見高若者連に贈られたものである。東京の歌舞伎座は何回か火災で焼けているため、当時使用された引幕で現存するものは数少なく、芸能に関する非常に責重な文化財である。 河津町教育委員会 社頭掲示板 |
多祁伊志豆伎命神社 多祁伊志豆伎は假字也○祭神明か也○在所詳ならず 神社覈録 |