神沢神社
かんざわじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】氐良命神社 伊豆国 賀茂郡鎮座

   【現社名】神沢神社
   【住所】東京都三宅村伊豆
       北緯34度6分39秒,東経139度29分55秒
   【祭神】手間天神
   【例祭】7月10日 例祭
   【社格】
   【由緒】當社の創祀を明らかにすることはでき得ない

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「手間天神社」と称していた
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造二扉 小祠
       

   【境内社】

『三宅記』の三島大明神の第三の后神(佐伎多麻比咩命)が八王子を一度に産んだ時、「四番テヰ(テラヰ)」が氐良命であり、当社の祭神とする。
当社の境内は、御祭神祭(東京都無形文化財)で知られる御祭神社(藥師堂)の境内に隣接している。海抜189.3mの嶽比良山の麓に位置する神座(神沢)山(海抜、約90m)を中心とする一帯である。境内は一面に椎や楠の大木でおおわれている。伊豆村のはづれ(伊ヶ谷より)より、約300m入つたところである。御祭神社の参道を30mほど入つたところから右側の畑道へ進み、さらに畑を越えて神座山へ入ると、ほどなく当社の小祠に到着する。
当社は古くから小祠であった。
"明神池"とよばれる水溜りがあったとされているが全く埋没していて不詳である。


神沢神社

都道から御祭神社の参道を約50m入ったところから、集落の裏に沿って畑を越えて南西にすすみ、南から尾根様になってきている山腹斜面に南東方向にとりつき、水平約100m登ったところ、海抜約87mに神座山様の木造の小祠がある。小祠は1m×1m弱、上屋は2m×2m(目測)。間口3m×奥行4m(目測)ぐらいの平地をつくり、まわりに石垣を積み、そこに社殿がある。両側手前には、手洗などがある。
社殿はほぼ北を向いている。社殿の前方約4m(目測)に細い竹を二本たて、注連縄を張っている。お正月の為のお供物があがっていた。
まわりはすぐ北につづく木宮様の森と同じようなシイやクスの大木が多い、下生えの疎な原生林である。そのすぐ東下にV字形の谷があり、"明神池"とよばれる水溜りがあったといわれているが、今は土や落葉で埋まっていて見えない。
V字形に溶岩を刻んだ谷底の一部は、落葉と土で埋められているが、歩けばもぐるほどの水を含んでいる。尾根筋にある神座山様の社殿の水平約40m(目測)東垂直約5m(目測)下にある。この"明神池"の水はおまつりに使われていた。V字形の谷底にあらわれている玄武岩の溶岩の上には約1m強ぐらいの黒土が恐らく葡行などにより堆積しており、それが滞水層となり、溶岩の面に浸み出して来て、池が出来たものか。もちろん洪水時には、渓水があったものと思われる。
溶岩は、溶岩流の冷えた部分なので参差状となっており、その上に土がたまって植物が生え、現在は極相に達した原生林となっているのをみると、この溶岩流は古代的なものであると思われる。
地質調査所発行の五万分の一地質図には、ここに爆裂火口の記号が描いてあるが、その根拠は説朋書にも示されていない。神座山・御祭神社・木宮様を結ぶ弧状の急斜面が爆裂火口の火口壁であって、それが流水により変形したもののように思われる、火口壁を刻んだいくつかの小さい谷の一つに、"明神池"ができたものである。
"明神池"の谷は、南東を谷頭にして北西に開いている、"明神池"より約30m(目測)下流で、埋まっている谷底の幅は約15m(目測)であるが、この明神池の谷は、二万五千分の一地形図にあらわれていない。その東上につづく畑をへだてた、地形図に出てくる一ばん西側の谷の谷底の方が、約1m50(目測)高い。地形図にある一ばん西側の谷を古い溶岩流が流れ、その溶岩流の西側のふちにそって、"明神池"の谷が出来たものと思われる。

三宅島式内社に関する歴史地理学的研究 森谷ひろみ



氐艮命神社

氐艮は假字也○祭神明か也○在所詳ならず
伊豆志に、二條村手良ノ山ノ神アリ、古社トモ見エズ、寺カ谷ニアルニヨリテ寺ノ山ノ神ト呼シトオモハル、と云り、〇伴信友云、志ニカクアレドモ、神名ハ正シク式社ナリ、イツレニモ当社ナルベシ、

神社覈録



伊豆国INDEXへ        TOPページへ


学校名簿