優波夷宝明神社
うばいほうめいじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】優波夷命神社 伊豆国 賀茂郡鎮座
   【延喜式神名帳】許志伎命神社 伊豆国 賀茂郡鎮座

   【現社名】優波夷宝明神社
   【住所】東京都八丈町大賀郷大里
       北緯33度5分59秒,東経139度46分51秒
   【祭神】優婆夷神 宝明神
   【例祭】11月13日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】由緒不詳
       永享11年(1439)奥山宗麟が当社の木質女神像を再興
       寛政年間神職奥山義忠老衰のため岡里の私邸へ遷座
       明治7年6月4日郷社
       明治8旧地に復した

   【関係氏族】
   【鎮座地】許志伎命神社の旧地は西山の南麓・甑山であった
         寛政年間神職奥山義忠老衰のため岡里の私邸へ遷座
         明治8旧地に復した

   【祭祀対象】
   【祭祀】「古宝明神社」「大里神社」と呼ばれた
   【社殿】本殿石造
       拝殿

   【境内社】松尾・稻荷・三島・磯神社

式内社・優波夷命神社と式内社・許志伎命神社を合殿に祀る神社。
事代主命(ことしろぬしのみこと)の妃八十八重姫(やそやえひめ)と、その子古宝丸(こほうまる)を祀っている。八丈島の総鎮守。  
『三宅記』の「おきの島」(八丈島)に置き給うた三島大明神の「いなはえの后」(優波夷命神社)の御子「五郎王子」を許志伎命神社と考える。
中世に優波夷命神社と許志伎命神社が同座となった。
許志伎命神社の旧地は西山の南麓・甑山であった。
社殿の左右に柱が四角の一風変わった一対の低い石灯寵があるが、これはキリシタン灯籠とか、織部灯籠とか呼ばれるもので珍らしい形式のものである。
寛政年間に神職・奥山義忠が老衰のため奉仕の便を考へ岡里の私邸へ遷座、岡里神社と称して明治に至つた。明治8年再び旧地に復した。


優婆夷宝明神社

この神社には、事代主命のお妃優婆夷姫と、その子古宝丸が祀られている。このお二柱は八丈島民のご先祖であるところから、神社創建は古く、約千年前に編さんされた延喜式神名帳に記されている式内社である。式内社があることは、その土地の文化の古さを証明している。
社殿内には木造女神坐像や、色々な宝物が納められており、境内には織部灯籠や樹齢千年位の大蘇鉄等がある。
キリシタン灯籠
嘉永7年(1854)に奉納されたこの灯籠は 別名織部灯篭と呼ばれるが、キリスト教や茶道とは関係なく、島の願主達が名工の誉れ高い石工仙次郎(1834流罪、1856没)に、好きなように腕前を揮わせた作品と思われる。
八丈島ではキリシタン灯籠はこの一対しか発見されていない。
町郷土資料(金石文)
昭・55・8・8指定
八丈島大賀郷優婆夷宝明神社境内
優婆夷宝明神社のソテツ
八丈島にソテツが植えられた年代は定かでな いが、平安、鎌倉まで遡ることができるであろう。
島内には他にも古株があるが、このソテツは 樹齢、樹姿の上から名木に値するものであり、大切に保護すべきものと思われる。
町天然記念物
昭・58・11・14指定
八丈島大賀郷優婆夷宝明神社境内

社頭掲示板



優波夷宝明神社

この神社には、事代主命のお妃優夷姫と、その子古宝丸が祀られている。このお二柱は八丈島民のこ先祖であるところから、神社創建ば古く、約干年前に編さんされた延喜式神名帳に記されている
式内社である、式内社があることは、その土地の文化の古さを証明している。
社殿内には木造女神坐像や、色々な宝物が納められており、境内には織部型燈籠や樹齢干年位の大蘇鉄等かある。

社頭掲示板



優婆夷宝明神社

この神社には、事代主命の八丈島の妃・優婆夷姫と、その子・古宝丸が祀られている。
事代主命は、出雲(島根県)の大国主命の子で、父に国を瓊瓊杵尊(天照大神の孫)に譲ることを勧め、自らは国を出て三宅島で亡くなったという。
この神社は、千年以上前に編纂された延喜式神名帳に記されている大変古いもの(式内社という)で、八丈島の総鎮守(郷社)とされる、社地には、稲荷神社など5神が祀られており、社殿内には祭神・木造女神座像(都文化財)や境内にはキリシタン灯篭(別名、織部灯篭。町文化財)などがある、

社頭掲示板



優婆夷宝明神社

うばいほうめいじんじや 東京都八丈島八丈町大字大賀郷。伊豆七島中の最南端、八丈島の西南。旧郷社。祭神は優婆夷神・宝明神。古くから八丈島の総鎮守と仰がれ、全島民の崇敬をうけて来た。延喜式内の優波夷命神社と許志伎命神社にあてられ、古伝によれば三島大明神の后神と御子神を祀るという。二神を同殿に祀る現在の形態もかなり古くからのようだが少なくとも許志伎神社(宝明神社、旧称古宝明神)は八丈富士(西山とも)の南麓・甑山と称した所が旧社地であったと考えられる。コシキは飯を蒸す甑の意で、おそらく八丈富士の噴火にかかわる名称であろう。そしてコシキを古敷・古布などと書いたのが、やがて古宝と書き誤まりるついには宝明神社となったかともみられる。例祭は11月13日で、前日及び前々日には神輿が島内を巡行し、また当日午後には奉納相撲がある。
伝存する木質女神像は室町期のもので、東京都文化財に指定される。

神社辞典



優波夷命神社

優波夷は宇婆伊と訓べし、合類云、優婆塞、(梵語、唐略曰近事男、又曰清信士、是受五八戒者、見涅槃経、又釈氏要覧)優婆夷、(近事女、清信女、並同、見大蔵一覧、僧男曰優婆塞、又曰徳士、女曰優婆夷、又曰尼)○祭神明か也○八丈島に在す、(志)三根村、(七島図)
伊豆志に、田方郡門野原村ニ姥神社アリ、正徳貞享ノ札ニ優婆大明神トアリ、ト云ヘリ、当社ヲ遷シタル証トスベシ、又賀茂郡川奈村優婆乎山下岩窟ニ優婆子ノ祠アリ、

神社覈録



許志伎命神社

許志伎は假字也○祭神明か也○在所詳ならず
平田篤胤云、藤井晶幸云、許志岐パト云所ニ此社アリ、コシキノ神社ト云フ、

神社覈録



郷社 優婆夷神社 宝明神社

祭神 天照皇大神 大山祇命
合祭 忍穗耳命 田心姫命 湍津姫命
   市杵島姫命 稚産霊命 芦牙彦児命
創建年月詳ならずと雖、優婆夷神社ば延喜式神名帳の賀茂郡四十六座の一にして、又宝明神社は式内許志伎命神社なるべしと伝ふ、即ち優婆塞は梵語にして釈して近事男又は清信士と曰ひ、優婆夷は近事女又は清信女と曰ふ、要するに俗にありて佛門に入れる男を優婆塞といひ、俗にして佛門に入れる女を優婆夷と称す、神社覈録に「八丈島に在す、三根村」とあり、神祇志料には「八丈島太賀郷にあり、島の総鎮守優婆明神と云ふ(豆州志南方海島志伊豆式社考証)優婆夷命を祀る(延喜式)蓋三島神の妃神也(三宅記〇按本書三島神五柱の后神を五の島に置給ふ事を記しておきの島に置給ふ后をいなはねの后とも申けるとあるいなはね、蓋優婆夷の訛なり」と見ゆ、伊豆志に「田方郡門野原村に姥神社あり、正徳、貞享の札に優婆大明神とあり」と見えたるは当杜を遷したるにはあらぬか、又賀茂郡川奈村優婆子山下岩窟に優婆子祠あり(神社覈録)尚考ふべきなり、社記に拠れば後花園天皇永享11年領主金川宗麟当社を再興せし由見ゆ。
許志伎命神社は神社覈録には在所詳ならずとあれと、神祇志料及平田篤胤の説によれば、許志伎婆の地にありとせり、社記には宝明神社祭神大山祇命にして、三島神社を勧請し奉る所にして、永享11年4月金川宗鱗の再興に係ると傳へたり、右殿配祀の六神何れも往古より大賀郡に鎮祭したるものなりと云ふ、寛政年間神職私に八神を岡里の私邸に遷し、岡里ノ神社と称し奉祀したりしが、明治7年両社を郷社に定められ、同8年岡里神社を故地に復し、以て今日に至る。
社殿は本殿、拝殿を備へ、境内3094坪(官有地第一種)を有す。

明治神社誌料



伊豆国INDEXへ        TOPページへ


学校データ