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富賀山(海抜60.4m)の中腹に鎮座している。 伊豆諸島の総鎮守、静岡県の三島大社の総社と言われている。三島大社は本来この地に鎮座し、その後白浜に遷したという。 当社はもと上の峯富賀平(雄山の八合目あたり)の地に鎭座していたが、噴火により本殿を焼失し、その後、二島ヶ山(新富賀山・二富賀山ともいう。古錆浜にある荒島神社のあたり)へ移り、さらに現在地へ移つたという。 当社(当社というより当島)の神主職は累代壬生氏が襲継してきた。壬生家は三宅島で最も由緒ある家柄で、神主職とともに代々地役人も兼ねてきた。 境内社壬生宮の背後にある人型の溶岩塊は本来のご神体ではなかったかと言われている。 |
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富賀神社 この神社には、事代主命(三島大明神)、伊古奈比当ス(后)及び阿米津和気命(王子)の三人が祀られている。 事代主命は、父大国主命と共に出雲国島根半島から紀伊国に渡り、更に三宅島に渡つてこの神社附近に居住し、島々に漁業や農業を伝えて島の基盤を築いたといわれている。伊豆七島の総守でもあり、静岡県三島神社発祥の地として名高い。 また、一説には、事代主命の墓所でもあるともいわれている。境内からは、古墳時代の土器や勾玉、耳飾などが発掘され、現在保存されている和鏡も平安時代にかけてのもので、古社であることがうかがわれる。 現在の本殿・拝殿・神輿堂・参道については、度重なる台風や噴火の被害を受けたために、平成19年に修復が行われたものである。 三宅村 社頭掲示板 |
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古老の口碑 大國主神の子、事代主神は、國土の献上を進言した後、海中へ隙れ去られたが、遂に千里の波濤をこえて伊豆三宅島の神着へ着かれたといふ(現在、大久保濱の大崎がその場所といふ。)その後、上ノ峯へ移られ、次いで二富賀(にとが)山(錆ヶ濱あたり)で穴居生活をされてゐた。ところが、ある年の正月3日、事代主神は壬生ノ御館を召されて、「我はすでに年齢が尽きた。この8日に隠れようと思う。」と仰せられたといふ。しかして、1月8日の午ノ刻、事代主神は神去り給うた。島民はそのところに宮を造営して事代主神の御霊を祀つた。それが富賀神社であるといふ。(一説に、富賀神社は事代主神の墳墓といふ。) 式内社調査報告 |
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富賀神社 富賀山(海抜60.4m)の中腹に鎮座している。 伊豆諸島の総鎮守、静岡県の三島大社の総社と言われている。三島大社は本来この地に鎮座し、そのあと、三宅島富賀神社→白浜海岸白浜神社→大仁町広瀬神社→三島市三島大社と遷したという。 當社はもと上の峯富賀平(雄山の八合目あたり)の地に鎮座していたが、噴火により本殿を焼失し、その後、二島ヶ山(新富賀山・二富賀山ともいう。古錆浜にある荒島神社のあたり)へ移り、さらに現在地へ移ったという。 当社(当社というより当島)の神主職は累代壬生氏が襲継してきた。壬生家は三宅島でも最も由緒ある家柄で、神主職とともに代々地役人も兼ねてきた。 (蓋し壬生氏は、古代皇族の御養育に奉仕した家柄で、その一族の分布も相当に廣く、近国では駿河・三河両国にもその移住がしられるから、同家も亦中央より移住したものであろうかと推定せられる。) 伊豆下田、伊古奈比当ス神社誌 P168より抜粋。 事代主命(恵比寿様)は、父である大国主命(大国様)とともに出雲国島根半島から紀伊国に渡り、さらに、三宅島に渡ってこの神社付近に移住し、島中に漁業、農業を伝えて、この島の基盤を築いたといわれている。静岡県三島神社は本来、富賀神社より分祀された旨が事代主神の御事跡に明記されている。 また富賀神社の御本殿地下には事代主神の御陵であるといわれ、神殿の地下からは古墳時代の土器や勾玉、耳飾りなどが発掘されており、現在それが保存されている。なかでも古鏡は奈良時代初期の古神である。 事代主神三宅島に宮居し神去ります。事代主大神の諸島経営せられし憑拠(ひようきよ)とすべき「三宅記」となす。(前文略) 富賀神社宮司 壬生明彦 公式HP |
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富賀神社 とがじんじゃ 東京都三宅島三宅村阿古富賀山。旧郷社。別称、天地今宮・東国大明神。祭神は阿米都和気命・事代主神・伊吉奈比盗_を祀る。『三宅記』に「三宅島におかせ給ふをば天地今宮とそ申ける」とあるのは、当社のことという。創祀をつまびらかになし得ないが、天照大神の詔により事代主神は伊豆の海に島々を造成した時に始まると伝える(『三宅島神名帖』)が、信憑のかぎりでない。『延喜式神名帳』の伊豆国賀茂郡に登載の「阿米都和気命神社」にあてられる。嘉祥3年(850)6月、従五位下に、仁寿2年(852)12月、従五位上に叙せられた。安永元年(1772)社殿を焼失、同5年2月、再興。明治7年(1874)5月、郷社に列せられた。三宅島の総鎮守にして、神着に鎮座の御笏神社とはとくに関係が深い。伊豆諸島の総鎮守でもある。また、三島大明神発祥地と伝える(『三宅記』)。例祭8月4日。「島巡り神事」が行われる。神主職は累代壬生家が襲継してきた。 神社辞典 |
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阿米都和氣命神社 阿米都和氣は假字也○祭神明か也○在所詳ならず 神位 文徳實録、嘉祥3年6月庚戊、伊豆國阿米都和氣命授從五位下、仁寿2年12月丙子、、加伊豆國阿米都和氣命神從五位上、又齊衡元年6月己卯、伊豆國阿米都和氣命神授從五位上、(同位重出不審) 神社覈録 |
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郷社 富賀神社 祭神 伊古奈比当ス 阿米都和氣命 事代主神 当社は一にあめつち今宮と称し、延喜式神名帳賀茂郡四十六座の一、阿米郡和氣命神社是なり、即ち文徳實録嘉祥3年6月伊豆国阿米都和氣命に從五位下を授け、仁壽2年12月從五位上を、又齋衡元年6月從五位上(同位重出せるはいぶかし)とある社なり、神社覈録に、在所詳ならざる由をいへど、神祇志料に「今三宅島にあり、総鎮守三島明神又富賀明神といふ(伊豆式社考証)阿米都和氣命を祭る(文徳実録廷喜式)蓋三島神伊古奈比当スを娶て、生坐る御子也(按するに本社所藏古上梁文に、三島大明神、富賀大明神、当國大明神とみえたる、富賀明神は、阿米都和氣命其余は三島神、一は伊古奈比当スを常后大明神と云ひしを、当國と唱へしものにて、三倉島の伊太氏別命も二神と同殿に坐し、利島の阿豆佐和気命も摂社に三座ますと同例なるにて知るべし)」と見えたり、而して伊古奈比当ス神社は名神大にして白浜村に在して白濱明神と称し、三島大神の后神とす、社記によれば若澤郡三島なる三島大神は上古賀茂郡三島に坐したりしが、中世同郡大社郷(今の白濱村)に遷座し、後に又今地に遷りしものなりと、尚社記及古老の伝に事代主神当國海島を経営し給ふ時、伊賀牟比当ス大蛇に追はれて当島に来りまししを、事代主命の詔により之を討し給ひき、今斬蛇の神事はこれに基すといふ、明治6年9月郷社に列す、社殿は本殿、拝殿、神饌所及額堂等にして、境内實に4857坪6合(官有地第一種)を有す、 明治神社誌料 |