阿豆佐和気命神社
あづさわけのみことじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】阿豆佐和気命神社 伊豆国 賀茂郡鎮座

   【現社名】阿豆佐和気命神社
   【住所】東京都利島村1
       北緯34度31分46秒,東経139度16分37秒
   【祭神】阿豆佐和気命
   【例祭】12月27日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】嘉祥3年(850)6月4日従五位下
       仁寿2年(852)12月15日従五位上
       斎衛元年(854)正五位下
       明治4年郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】旧地宮塚山の南西中腹(本宮)

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造
       拝殿・庁屋

   【境内社】八幡神社・堂山神社・浜之宮神社

集落の中に鎮座する。
当社は何故か『三宅記』に記載を見ないが、社伝によれば、主祭神阿豆佐和気命は事代主神の王子であり、配祀の后神とともに本島開創の始祖として奉齋したと云う。
中央に標高508mの宮塚山があり、宮塚山の南西中腹に阿豆佐和気命神社の旧社地であり、一小祠を祀る。
この小祠の上方約百メートルほどの処に、祭神の御陵(通称コクラ)と称する遺跡がある。
宮塚山を対象とした祭祀遺跡と思われる。
江戸期には神仏混淆で祭祀が行われていた。


阿豆佐和氣命神社

阿豆佐和氣命神社 あずさわけのみことじんじゃ
御祭神 阿豆佐和氣命
合祀神 下上御方
配祀神 神武天皇
祭 礼 歳旦祭 1月1日 弓矢の祭 1月1日
年の日祭 1月2日以降の初酉の日(当神社の干支は酉) 筒粥祭 1月14日
祈年祭 2月17日 蟲乾祭 7月7日
新嘗祭 11月23日 例大祭 12月27日
除夜祭 12月31日 大祓祭 6月1日と12月31日
 例祭の12月27日は御祭神の命日(御崩れ日)と伝えられる。例祭に先立ち12月24日、神職 と年男(注連縄・御札作り。他神職の補佐役)は南御神山にある御陵(祭神の御崩れとなった所と伝わる)と一・ 二・三番神社を巡拝し、正月の注連縄飾りやオッテングラを立てに行く。これ以降元日まで、御神山以奥 の山への一切の人の出入りが禁止される。
境内神社
 道祖神社 三島神社 山川神社 宇渡間神社 西宮神社 御戸口神社 大島神社 第三王子尊  若尊神社 白浜神社 大山小山神社 天津神社 姫宮神社 貴宮神社 三宅島神社 神津島神社  海竜神社 疱瘡神社
由来沿革
 創祀年代は不詳であるが、平安時代の日本文徳天皇実録には嘉祥3年(850)従五位下を奉授、さらに仁寿2年(852)加従五位上、斎衛元年(854)正五位下の位階加授とある。又康保4年(967)施行の延喜式神明帳に国幣小社阿豆佐和氣命神社の記載があり、当神社の歴史はさらに遡る。 神社は当時南御神山に在ったが、後の時代に現在地に遷座された。旧神社地は今の阿豆佐和氣命神社本宮(一番神社)である。古の記録は今は無く、口碑によれば、祭神阿豆佐和氣命は伊豆諸島の造立神である三島明神の御子で、明神が利島に御垂迹の際、御子と同后を本島に留められ生涯本島開創に携わらせた。御崩れ後、島の南を夫神阿豆佐和氣命の鎮座御神山に、東を比売神下上御方の鎮座御神山とし、長く鎮祭されていた。しかし参拝の不便、且つ村の鎮守守護の為に当所に遷座された。その時期は今より600年前(室町初期から同中期頃)の事と伝えられている。明暦2年(1656)京都勝光寺中興開山日宗上人(神社明細帳には「身延山勝光寺開基日宗」とある)来島以後、200年余の間両部混在の祭祀が行われた。明治4年(1871)韮山県庁より国学者萩原正平巡視の節、神仏混淆を廃すも、利島の神社は両部神道の系譜を引き祭事・祭式の仏式は残った。しかし、明治26年(1893)神主石田助左衛門は神道祭祀修得を目的に新島の十三社神社宮司前田真一郎氏に師事、六カ月の研鑽の後、前田氏を伴い帰島し神祭式を復活普及させた。
 島内の数多くの神社の中で、当神社は最も規模も大きく整った神社でその中心をなし、鎮守・氏神として今日まで村民から明神様と呼ばれ崇敬され親しまれている。

社頭掲示板



阿豆佐和気命神社

明細帳に「創立年代詳ナラズ、延喜式小社ニ列セラレ、阿豆気明神称セリ」とあり、本島開祖とされ、山の南側に阿豆佐和気命、東側に姫神の下上命が鎮座している。参拝の不便から村落内に夫妻を祭神として分祀遷座したとされる。

東京都神社庁



阿豆佐和氣命神社

阿豆佐和氣は假字也○祭神明か也○利島に在す、(志)例祭月日、
神位
文徳實録、嘉祥3年6月庚戊、伊豆國阿豆佐和氣命授從五位下、仁寿2年12月丙子、加伊豆國阿豆佐和氣命神從五位上、又齊衡元年6月己卯、加伊豆國阿豆佐和氣命神從五位上、(同位重出不審)

神社覈録



郷社 阿豆佐和気命神社

祭神 阿豆佐和氣命
合殿 下上御方 神武天皇
創立年代詳ならず、醍醐天皇の延喜の制式の小社に列す、延喜式阿豆加明神を、阿豆氣明神とも称せり、(豆州志、南方海道志)豆州志稿に、
「〇利島旧称阿豆氣明神社也、阿豆氣は阿豆佐和気の約なる可し、文徳紀曰、嘉祥3年6月伊豆国阿豆佐和気命授從五位下、仁寿2年12月加從五位上、齋衡元年6月加正五位下、」
とある由緒正しき社なり、然るに明暦2年5月身延山の僧、勝光寺開基日完渡来の後両部を混じ祀りしも、明治4年4月韮山縣庁より荻原正平巡視の節、神佛混淆を廃し、式内阿豆佐和氣神社と定められ、同7年7月19日足柄縣庁より郷社阿豆気神社と称せられたり、神名帳考証には祭神大山津見神の子足名椎神とせり、一説として掲げ置くべし。
社殿は本殿。拝殿、長屋殿等を具備し、境内948坪(官有地第一種)あり、東京迄海路八十一海里あり。
因に云「本島に平地なれど土質悪からす、草木暢茂し、其民農をカむ、然れども水に乏し、小児の啼く時、水を與ふと云ひすかせば。忽に止むとそ、七島中水に乏しきもの、利島を最とす。

明治神社誌料



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