本殿は里部落から南へ約8Kmほど離れた反対側(通称アカイガワ)に鎭座している。 |
御蔵島伝説 「三島大明神縁起」によると、伊豆諸島は龍神の置いた3個の石から始まり、石は一日一夜にして島となったとある。初島が初めに作られ。神が集まって島作りを話し合う島として神集島(神津島)が作られた。三番目に大きな大島が作られた。4番目に海の塩で新島が作られた。そのため新島は白いと云う。5番目に三人の神(見目、若宮、剣の御子)の家を建てる為の島、三宅島ができた。そして6番目に三島大神の大事な蔵を置くための島として作られたのが御蔵島だ。沖の島、小さな小島、 天狗鼻の形の王鼻島(ほうでしま)、そして十番目の島として十島(利島)ができたとある。 三宅島でも噴火の影響を免れてきたところには巨木が存在し畏敬の念を感じる。そうした所は神に守られた場所として自然とそこに神社が置かれる。他の島が周期的な噴火を繰り返すのに対して、御蔵島は噴火が7000年間も無く、島全体が神に守られているようだ。噴火が無いことで御蔵島は海流による侵食を受けつづけ島の周りは東洋一を誇る断崖となり宝を守る自然の城壁も形成された。まさに神が創った要塞と言えるだろう。 明神様の伝説 1月20日に御前に明神様が上陸すると言われています。そして赤い衣、鉄下駄、すり鉢を被った怖い形相をした明神様が、稲根神社本殿から神の道を通って里まで降りてきて、1月24日の夜になると里を徘徊するという伝説があります。この日は「忌の日(きのひ)」と呼ばれ夜0:00以降は村の人もあまり出歩きません。25日の早朝には、里の崖下の大根が浜から船に乗って、神の集う島である神津島(神集島)に船出すると言われています。この日の朝は決して海を見てはいけません。早朝、神様が船出するところを見るとさらわれてしまうという言い伝えがあるからです。 シロージローの伝説 (稲根神社発祥伝説) 八丈島では銅鏡が多数発掘されていますが、御蔵島でも鏡にまつわる伝説があります。昔、シロージローという人が「南の風が吹くと鈴が鳴る」と言い出しました。シロージローがナタを持って森に入って行くと、カクレミノの木に鏡が掛かっていました。シロージローは村へ持ち帰ろうとしましたが、鏡は「人に会いたくない。ここに居たい」と言ったそうです。そこでシロージローは近くの岩屋に鏡を納め、一旦村に帰り、また戻ってきてから祠をつくり奉ったそうです。或いは鏡だけではなく、あったのは「三種の神器」であったという話もあります。島のお年寄りに聞いてみるともっと詳しいお話が聞けることでしょう。 御蔵島旧島旧人伝説 昔江戸時代に三宅島の人が無人島のはずの御蔵島から煙が上がっているのを不思議に思い見に行くと、男の人が住んでいた。どのくらい前から居たのかと聞くと、「オサダの花が七まわり半咲いた」と答えたそうです。御蔵島ではこの人の事をキュウトウキュージン伝説として今に伝えられています。写真は御蔵島で撮影。三宅島の見える高台に咲いていました。 (旧渡旧人や九頭九神と書く場合もあります。出展:御蔵島民族資料緊急調査報告 東京都教育委員会より) 御蔵島に咲くオサダの花(センニンソウ) 源為朝伝説 (みなもとのためとも) 平安時代後期に活躍した武将、源為朝にまつわる伝説もあります。 大三郎根や虎正の根と名付けられた根(海の中の岩)は、源為朝の息子の名前が付けられたと言います。 御蔵島 島名由来の伝説 御蔵島「海暗(うみくら)」説 御蔵島の島名の由来は三島大明神説が有力だが、黒瀬川(くろせがわ)と呼ばれる御蔵島と三宅島の深い海を別名「海暗(うみくら」と呼び、これが音韻変化して御蔵(みくら)になったという説がある。この「海暗」は有吉佐和子の小説のタイトルにもなった。 御蔵島「美しい宝倉の島」説 江戸時代に高価なツゲの産地として御蔵島は一躍有名になった。そこで美しい宝倉の島、「美倉島」が後に「御蔵島」となったという説もある。 http://www5b.biglobe.ne.jp/~mabuta/progra-m/fl-MikuLegend.htm |