高忍日売神社
たかおしひめじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】高忍日売神社 伊予国 伊予郡鎮座

   【現社名】高忍日売神社
   【住所】愛媛県伊予郡松前町徳丸387
       北緯33度47分23秒、東経132度45分37秒
   【祭神】高忍日売神 (配祀)天忍日女命 天忍男命 天忍人命
   【例祭】10月13-15日 例大祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳
       興国4年(1343)2月神領寄進状「高忍姫御神領」
       正平6年(1351)2月18日寄進状「八幡宮」
       寛永15年(1638)正月朔日焼失
       安政5年(1858)造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】社地変遷の伝承なく、往古より現在地と考えられる

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「高忍日売若宮八幡宮」と称していた
   【公式HP】 高忍日売神社
   【社殿】本殿流造銅板葺
       幣殿・中殿・拝殿・神門・神庫・神札授與所

   【境内社】素鵞神社・若宮八幡宮・夷子神社・七生稲荷神社・天満宮
        金刀比羅宮・生目八幡宮・ 良原神社・天照皇太神宮・産砂社


西方500mの地点出作遺跡からは多量の祭祀遺物が出土した。標高約15mの平地であるが、農業基盤整備事業中に、須恵器と土師器200点余、石製模造品の勾玉、有孔圓板、白玉、鋤・鍬・鎌・鐵錘などがある。須恵器は古式のもので、「陶質土器」と呼ばれる朝鮮半島からの移入品も含まれてゐるという。出作遺跡は川の近くにあり、農工具の石製模造品の多い点、農業水利に関する祭祀遺跡と考えられる。時期は5世紀後半であるとされ、高忍日売神社との関連性が注目される。
産婆乳母の祖神として信仰されている。


高忍日売神社

高忍日賣神社は、古代より皇室のご崇敬殊の外厚く、ご出産の際には勅使が差遣されたと伝わっています。『伊予国風土記逸文』には聖徳太子道後行啓の折に伊予郡を巡られたとあり、当社に参詣して「~号扁額」を奉納されました。
奈良時代には、当社が開発領主となって付近一帯を開墾して神社の前を三千坊、後ろを千坊と称して境内八町余に及び、広大な神域を形成していました。また、神職の中には国府の役人を兼ねる者がおり、中央とも盛んに交流がなされ、伊予郡の文化的拠点ともなりました。
平安時代には、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』巻九・十(延喜式神名帳)に国がお祀りする神社(官社)が記載されており、当社の名前も記されました。このような神社は延喜式内社または式内社と呼ばれ、現在でも格式ある神社として重視されています。また、正三位の神階奉授があり、「高押穂明神」とも称され、勅使・国司の参向が度々ありました。
鎌倉時代には、高忍日賣若宮八幡宮と称して武家の信仰を集めました。特に、征夷大将軍源頼朝公から幕府繁栄・安産の加護のため、神領76町を寄進されました。また、神社の北東(鬼門)と南西(裏鬼門)にある夷子(えびす)社では月3回の市(三斎市)が開かれ、多くの人々で賑わいました(この夷子社のことを上市夷子、下市夷子と呼びました)。社家は武士団を形成して幕府御家人として活動し、朝廷にも重視されていました。南北朝時代には、いち早く南朝方に属して南朝の興隆のために尽くし、後村上天皇から勅使左少弁を遣わされて、当時の神主藤兵衛(とうのひょうえ)に位階・神領安堵状が授けられました。また、豪族河野(土居)通景から神領や武具等の寄進がありました。
室町時代には、夷子社で開かれていた市も月6回(六斎市)となり、大いに繁栄しました。神社が座元となって商人たちを保護して伊予国内にとどまらず、全国各地と交易を行いました。
戦国時代になると、戦国大名の富国強兵策により、神領を徐々に失い、商工業者は城下町に集められ、市は急速に衰えました。ただし、この市は当地方の需要のために江戸時代の寛文年間(1661〜1673)までは当社に市の設立の免許が出されていました。
江戸時代には、歴代松山藩主の崇敬厚く、藩の祈祷所として安産、厄除け、五穀豊穣、祈雨、祈晴等の祈願が行われ、また松山藩鎮護の社・伊予郡総氏神の社として藩主以下代官・大庄屋等が参列し、現在も藩主代官詰所が残っています(幕末まで「藩主御成の間」がありました)。なお、嘉永3年(1850年)に上棟された松山城天守閣の丑木は、当社境内の北西隅にあって温泉郡の川内からも見えたという大松が使われました。また、境内の古井戸は旱魃にも涸れることがなく、この湧水を飲むと子宝に恵まれるとされ、女性に信仰されています。清宮貴子内親王ご生誕の際には、皇室産婆より安産御祈祷のご依頼があり、神職が奉仕しました。
境内には三輪田米山や加藤高明、武市庫太、林銑十郎等の書を刻んだ記念碑や、全国的にも珍しい四季農耕図等、絵馬の傑作が多数あります。

公式HP



高忍日売神社

主祭神は高忍日売神、配神は天忍人命・天忍日女命・天忍男命である。
境内社には、素盞神社・金比羅宮・天満宮・太神宮・若宮八幡宮・七生稲荷神社・奈良原神社・生目八幡宮がある。境外末社として中川原のの素盞神社・大間の素盞神社とがある。
高忍日売神社は、産婆、乳母の祖神として崇められ、妊婦の信仰が厚い。また、箒の神ともいわれ、この神を祀る社は全国一社といわれる。
創立年代は未詳であるが、平安時代に延喜式内社に列せられ、延喜式神名帳に載せられた。本殿は流造銅板葺で、社宝に古文書・棟札・神楽面などがある。
嘉永3年(1850)に上棟された松山上天守閣の丑木は、境内の巨木を用いたものである。
社叢はクスノキをはじめ大木が繁茂している。先年、社叢の占有木県指定天然記念物のホルトノキ(ヒチジョ)の巨木が枯れた。
安政5年(1858)に再建された拝殿には「四季農耕図」をはじめ、絵馬殿の傑作が多数奉納されている。

社頭掲示板



高忍日売神社

高忍日賣神社は、古代より皇室のご崇敬殊の外厚く、ご出産の際には勅使が差遣されたと伝わっています。『伊予国風土記逸文』には聖徳太子道後行啓の折に伊予郡を巡られたとあり、当社に参詣して「~号扁額」を奉納されました。
 奈良時代には、当社が開発領主となって付近一帯を開墾して神社の前を三千坊、後ろを千坊と称して境内八町余に及び、広大な神域を形成していました。また、神職の中には国府の役人を兼ねる者がおり、中央とも盛んに交流がなされ、伊予郡の文化的拠点ともなりました。
 平安時代には、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』巻九・十(延喜式神名帳)に国がお祀りする神社(官社)が記載されており、当社の名前も記されました。このような神社は延喜式内社または式内社と呼ばれ、現在でも格式ある神社として重視されています。また、正三位の神階奉授があり、「高押穂明神」とも称され、勅使・国司の参向が度々ありました。
 鎌倉時代には、高忍日賣若宮八幡宮と称して武家の信仰を集めました。特に、征夷大将軍源頼朝公から幕府繁栄・安産の加護のため、神領76町を寄進されました。また、神社の北東(鬼門)と南西(裏鬼門)にある夷子(えびす)社では月3回の市(三斎市)が開かれ、多くの人々で賑わいました(この夷子社のことを上市夷子、下市夷子と呼びました)。社家は武士団を形成して幕府御家人として活動し、朝廷にも重視されていました。南北朝時代には、いち早く南朝方に属して南朝の興隆のために尽くし、後村上天皇から勅使左少弁を遣わされて、当時の神主藤兵衛(とうのひょうえ)に位階・神領安堵状が授けられました。また、豪族河野(土居)通景から神領や武具等の寄進がありました。
 室町時代には、夷子社で開かれていた市も月6回(六斎市)となり、大いに繁栄しました。神社が座元となって商人たちを保護して伊予国内にとどまらず、全国各地と交易を行いました。
 戦国時代になると、戦国大名の富国強兵策により、神領を徐々に失い、商工業者は城下町に集められ、市は急速に衰えました。ただし、この市は当地方の需要のために江戸時代の寛文年間(1661〜1673)までは当社に市の設立の免許が出されていました。
 江戸時代には、歴代松山藩主の崇敬厚く、藩の祈祷所として安産、厄除け、五穀豊穣、祈雨、祈晴等の祈願が行われ、また松山藩鎮護の社・伊予郡総氏神の社として藩主以下代官・大庄屋等が参列し、現在も藩主代官詰所が残っています(幕末まで「藩主御成の間」がありました)。なお、嘉永3年(1850年)に上棟された松山城天守閣の丑木は、当社境内の北西隅にあって温泉郡の川内からも見えたという大松が使われました。また、境内の古井戸は旱魃にも涸れることがなく、この湧水を飲むと子宝に恵まれるとされ、女性に信仰されています。清宮貴子内親王ご生誕の際には、皇室産婆より安産御祈祷のご依頼があり、神職が奉仕しました。
 境内には三輪田米山や加藤高明、武市庫太、林銑十郎等の書を刻んだ記念碑や、全国的にも珍しい四季農耕図等、絵馬の傑作が多数あります。

社頭掲示板



高忍日売神社

産婆乳母の祖神 延喜式内 高忍日売神社 由緒
御祭神 高忍日売神 天忍人命 天忍日女命 天忍男命
飛鳥時代には聖徳太子が参拝し神号篇額を書いて奉納した。
奈良時代には社前三千坊、社後千坊といゝ境内も八町余りあ った。平安時代には延喜式内名神に列し鎌倉時代には源頼朝 が神領七十六町を奉納して安産を祈り、また若宮八幡宮が合 祀された。南北朝時代には南朝より神領安堵状を下附され、 豪族河野通景も神領を寄進した。
鎌倉時代には神社の東北に上市、西南に下市を設け毎月三度 の市が開かれ、室町時代には六歳市に発展し江戸初期まで続 いた。江戸時代には松山藩祈願所伊予郡総氏神として藩主 の厄よけ安産の祈願、また藩の祈雨祈晴祈願もおこなわれた。 今も藩主代官詰所が残っている
昔から産婆乳母の祖神として信仰され、皇室産婆をはじめ助 産婦や妊婦の崇敬が厚い。
 社伝によれば神武天皇の父君、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命 がお生まれになる時海から沢山の蟹がはいあがって 産屋に入り、大変な難産になったが「高忍日売大神」と一心 に唱えると大神様は神のお使いとして天忍人命と天忍男命に は箒で蟹を掃き清めさせ、天忍日女命には産婆の役をさせた ので、たちまち蟹は姿を消し、海から潮が満ち寄せて無事に 安産したといわれる。
婦人は箒を大切にせよということはお産の時に箒の神様に 守っていただくためであり、当社に箒を奉納する風習も邪気 をはらい新しい生き方を祈願するためである。

社頭掲示板



母子と助産師の碑

私たち、助産師は、
出産や子ども虐待、大災害等で失われた母子の生命に対して、深い哀悼の意を表します。
 また、母子とそのご家族や女性のリプロヘルス/ライツ(性と生殖に関する健康と権利)の支援活動を生涯実践した先輩助産師の偉功を偲び、ここに、敬意と感謝の意を捧げます。 
 世界中の全ての母子と家族に幸福が、また世界中に平和が到来することを、心から願っています。
 私たちは、毎年3月8日を「母子と助産師の日」と定め、この地に集い、祈りを捧げたいと願っています。
 本レリーフ像は、造形美術家野口晴朗氏が、母子と温かく見守る助産師の姿をデザインしたものです。 
 高忍日賣神社は、古より助産師の神様の高忍日賣大神様をお祀りする全国唯一の神社です。私たちにとって縁深き御社に、この碑を建立させていただけることは、至上の喜びを覚えます。
 お導きいただいた高忍日賣大神様とご理解を賜りました後藤正宜宮司さま、愛媛県助産師会をはじめ、関係者の皆様に深い感謝の意を表します。
        平成24年5月吉日   村松志保子助産師顕彰会 役員・会員一同

社頭石碑



高忍日売神社

高忍日賣神社の御鎮座がいつのことかは明らかではありません。当社は、伊予国伊予郡(現在の伊予郡とは多少異なる)に位置します。当社の南の山地頂上部から麓の扇状地や河岸段丘、さらに平野部にかけて多くの大小古墳があり、また集落跡や大規模な祭祀遺跡も発掘されています。これらのことは、伊予郡に有力な指導者が存在したことを証明しており、恐らく当社の御祭神もその有力者だったのでしょう。
 当社は、古代より皇室のご崇敬殊の外に厚く、飛鳥時代には、聖徳太子が道後に来られた際に立ち寄って参詣され、神号扁額を奉納されました。
 奈良時代には、神社の前を三千坊、神社の裏を千坊と呼んで境内八町余に及び、神領は伊予郡一帯に拡がりました。
 平安時代には、醍醐天皇の延喜年間(901〜923)に成立した延喜式に、国がお祀りする神社が記されており(延喜式神名帳)に、当社の名前が記載されました。このような神社は、延喜式内社、又は単に式内社と呼ばれ、現在でも格式高いお社として重視されています。また、正三位の神階奉授があり、「高押穂明神」とも称され、勅使・国司の参向が度々ありました。
 鎌倉時代には、高忍日賣若宮八幡宮と称し、征夷大将軍源頼朝公から神領76町を寄進され、また神社の北東(鬼門)と南西(裏鬼門)にある夷子(えびす)社では月3回の市(三斎市)が開かれ、多くの人々で賑わいました(この夷子社のことを、上市夷子、下市夷子と呼びました)。社家は武士団を形成して朝廷にも重視され、南北朝時代には、南朝方に属して南朝興隆のために尽くし、後村上天皇から勅使左少弁を遣わされて、当時の神主藤兵衛(とうのひょうえ)に神領安堵状が授けられました。また、豪族河野(土居)通景から神領や武具等の寄進がありました。
 室町時代には、夷子社で開かれていた市も月6回の六斎市となり、大いに繁栄しました。戦国時代になると、戦国大名の富国強兵策により、神領を失い、商工業者は城下町に集められ、市は急速に衰えました。ただし、この市は当地方の需要のために江戸時代の寛文年間(1661〜1673)までは当社に市の設立の免許が出されていました。
 江戸時代には、歴代松山藩主の崇敬厚く、藩の祈願所として安産、厄除け、五穀豊穣、祈雨、祈晴等の祈願が行われ、また松山藩鎮護の社・伊予郡総氏神の社として藩主、代官、大庄屋等が祭礼に参列し、現在も藩主代官詰所が残っています。なお、嘉永3年(1850年)に上棟された松山城天守閣の丑木は、当社境内の北西隅にあって温泉郡の川内からも見えたという大松が使われました。また、境内の古井戸は旱魃(かんばつ)にも涸れることがなく、この湧水を飲むと子宝に恵まれるとされ、女性に信仰されています。清宮貴子内親王ご生誕の際には、皇室御産婆より安産御祈祷の御依頼がありました。
 境内には三輪田米山や加藤高明、武市庫太、林銑十郎等の書を刻んだ記念碑や、全国的にも珍しい四季農耕図等の絵馬の傑作が多数あります。

愛媛県神社庁



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