伊曽野神社
いそのじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】伊曽能神社 伊予国 伊予郡鎮座
          (旧地)一宮神社

   【現社名】伊曽野神社
   【住所】愛媛県伊予市宮下
       北緯33度46分56秒、東経132度45分47秒
   【祭神】天照皇大神
   【例祭】10月14日 例大祭
   【社格】
   【由緒】大同年中(806−810)唐木に造営
       延慶4年(1311)社合を「吹上大明神」称
       貞治5年(1366)兵火焼失
       応永年間(1394−1427)現在地に遷
       寛文11年(1671)3月21日造営「吹揚大明神宮」
       享保9年(1724)正月伊曽能神社に復
       弘化2年(1845)造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】最初上三谷村平松に鎮座
        応永年間(1394−1427)現在地に遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「吹揚大明神」と称していた
   【社殿】本殿流造銅板葺
       幣殿・拝殿・社務所

   【境内社】猿田彦神社・天神社・厳島神社・新三郎神社・吹揚神社・奈良原神社

昔神功皇后が九州へ向う途中船が進まなくなり、祭壇を作って神を祭ったところ、船は再び進みだしたため、祠を建てて海上守護神にしたと言われている。
最初、上三谷村平松(現伊予市)に鎮座(現在の一宮神社)したが、応永の頃新三郎なる者が現在地に背負いて遷座したと伝。


伊曽野神社

そもそも当伊曽能神社は延喜五年即ち905年醍醐天皇の命により藤原時平忠平等が22年の歳月を要して延長五年完成せる法典50巻の内延喜式の施行に係る全国神社名鑑に登載せられている由緒ふかき伝統の神社であります。

社頭石碑



伊曽野神社

延喜式内社。往昔、神功皇后三韓征途の際駐蹕あり、祭壇を設けて御神祭のあった霊跡と伝えられ、伊勢より天照大神を勧請し天児屋根命他三座の神々を合祀した。
貞観年中、国司源寛王奉幣、延久年中、源頼義が越智親経をして社殿を補修、河野家など武門の崇敬があり大洲藩主加藤泰秋の祈願所となった。
はじめ伊勢大神宮と称し、後に吹揚大明神と改めた。旧社殿は大同年中、長者の心願によって唐木にて造営したが、貞治の乱に社殿宝器ともに焼失し寛文11年再建、弘化2年神殿建立、文化11年中殿建立、明治2年再興。

愛媛県神社庁



伊曽野神社

延喜式内 伊曾能神社
鎮座地 伊予市宮下2007番地
祭神 天照皇大神
猿田毘古大神、伊蘇志神(傳社)
天児屋根命、太玉命
境内社 
天神社、新三郎神社、厳島神社
猿田彦神社,奈良原神社、稲荷神社
吹揚神社(和霊神社、岡崎神社、高殿神社、応神社、今岡神社、厳島神社、旗立神社、一宮神社)
由緒沿革
当社は、延喜式祠典に書き載せられた神霊にして伊勢大神宮の別宮なりと奉称、社号中古吹揚大明神と称したが享保9年正月旧号に奉復、往古より河野氏尊敬の社なり、明治維新の際に大洲藩知事の祈願所として崇敬せられ祭祀料等奉献。
神功皇后三韓を征するため筑紫に至らんとす時に当国の西海を過る,俄かに御舟進まず、皇后是を異み給い斎戒して大神を奉祭す、たちまちにして舟行元の如し、由て神祠を建て、海上守護神となす。
往古上三谷村平松の里に 宮神社と言あり、当社の神霊西海より上らせ給う時の仮宮とて其の地の人新三郎なる者今の吹揚森に奉遷由にて現在本社傍に新三郎神霊と称する小社存在せり。
社殿は大同年中(西暦806年〜810年)豊洲国符長者の心願により造営と申伝、延喜5年醍醐天皇の命により藤原時平等が22年の歳月を要して延長5年(西暦927年)完成。
主な祭礼
1月1日歳旦祭
1月15日春祭
7月第四日曜日夏越祭(元7月28日)
10月第二土曜日秋季例大祭(元10月14日)
同右 翌日曜日神幸祭(元10月15日)

社頭掲示板



伊曾能神社

延喜式内社。往昔、神功皇后三韓征途の際駐蹕あり、祭壇を設けて御神祭のあった霊跡と伝えられ、伊勢より天照大神を勧請し天児屋根命他三座の神々を合祀した。
 貞観年中、国司源寛王奉幣、延久年中、源頼義が越智親経をして社殿を補修、河野家など武門の崇敬があり大洲藩主加藤泰秋の祈願所となった。
 はじめ伊勢大神宮と称し、後に吹揚大明神と改めた。旧社殿は大同年中、長者の心願によって唐木にて造営したが、貞治の乱に社殿宝器ともに焼失し寛文11年再建、弘化2年神殿建立、文化11年中殿建立、明治2年再興。

愛媛県神社庁



伊曾能神社

伊曽能神社(いそのじんじゃ) 愛媛県伊予市宮下。旧郷社。 天照皇大神・天児屋根命・太玉命・猿田彦大神・伊蘇志神を祀る。延喜の制小社に列し、貞観年中(859−77)国司源寛王の奉幣、延久年中(1069−74)源頼義・越智親経の社殿修築、こののち河野家累代の尊信篤く、大洲藩の祈願所ともなった。末社は奈良原神社をはじめ七社。例祭10月14日。

神社辞典



伊曾能神社

伊予市宮下二〇〇七番地にあって、神官は武市盛幸である。祭神は天照皇太神・天児屋根命・太玉命・猿田毘古大神・伊蘇志神で、境内末社の吹揚神社には誉田別命・高皇産霊神・須佐之男命・櫛稲田姫命・田心姫命・田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命・彦狭島命・大小市命を祭り、天神社には菅原道真を、奈良原神社には保食神を祭っている。伊予市宮下の北谷に鎮座する当社は、延喜式に伊豫国伊豫郡伊曽能神社とある。この地は昔神功皇后が三韓征伐のとき泊まられ、ここに祭壇を設けて神祭りをされた跡であるといわれている。後世になって、伊勢から天照皇大神を勧請し、更に天児屋根命ほか三座の神々も合祀した。貞観年中(857−77)に国司源寛王が奉幣し、延久年中(1069−74)には源頼義が越智親経に命じて社殿を修補させた。それから後、各武家の崇敬があつく、伊予の国主河野家もよく当社を尊崇した。中古のころは社号を吹揚大明神と称していた。旧社殿は大同年中(806−10)に豊州(大分県)の国府長者が心願によって、唐木で造営されたものであった。その後、1365年貞治の乱のとき社殿が宝物もろとも焼けてしまった。1671(寛文11)年に再建され、続いて1845(弘化2)年には神殿を建立し、1814(文化11)年には中殿を建てた。これらの社殿は1869(明治2)年になって再興されるとともに、時の大洲藩知事加藤泰秋が当社を祈願所と定め、年々蔵米五石を寄進することになったが、1872(明治5)にこれは中止となった。同年1月15日に郷社に選定せられ、1908(明治41)年には神社維持方法に関する規程が改正されて、当社では知事の認可を得て田地一町歩余りを購入して基本財産とした。1912(明治45)年及び1938(昭和13)年には、本殿の屋根のふき替えを行い正遷宮を執行した。第二次世界大戦終丁後は、農地改革によって当社基本財産の田地はすべて買収せられ、宗教法人法の施行に伴い、一宗教法人として登録され現在に至っている。境内には本殿(楠・槻・檜材、惟一造、檜皮葺)、中殿(槻・松材、平屋造り瓦葺)、拝殿(槻材・平屋造、唐破風付、瓦葺)のほか、末社の吹揚神社(檜材・惟一造り瓦葺)、新三郎神社(同上)、厳島神社(同上)、猿田彦神社(同上)、天神社(同上)、奈良原神社(同上)、多賀神社(同上)の社殿や井水屋・手水所など多数の建造物がある。これらのうち、本殿は1984(昭和59)年桧皮葺を銅板葺に改修した。神域は山のふもとにあり、松・杉・檜・椎などの老木がうっそうとおい茂り、そのこうごうしさは格別である。社宝には伊曽能神社由緒一冊、延喜式一部、神号額一面、神領寄進状一巻、鏡(藤原吉良作)一面、伊曽能神社旧記一巻がある。
 今岡の御所は、伊予市宮下の茶臼山(丘)の上にある。ここは伊豫皇子の御陵であると伝えられ、彦狭島命と大小市命を祭る今岡神社があったが、1909(明治42)年伊曽能神社の境内末社吹揚神社として合併され、1981(昭和56)年その跡に記念碑が建立された。との今岡御所は、人皇第七代孝霊天皇の皇子伊豫皇子が西南の藩屏としてここに居住し、三六所の公卿百太夫を置いて各州を鎮護していた。その皇子が亡くなったのがこの地である。その後、推古天皇の御代、厩戸葛城臣と僧恵総らがこの地に宝石・玉塔・一三階を建て、乎致宿禰益躬が香大院を建てて今岡寺といっていた。越智氏の先祖はこれから出たという。本船大明神をはじめ一宮神社・新三郎神社・吹揚神社の由来が、『豫州大洲領御替地古今集』には次のように記録されている。

伊予市誌



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