伊予神社
いよじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】伊予神社(名神大) 伊予国 伊予郡鎮座

   【現社名】伊予神社
   【住所】愛媛県伊予市上野2485
       北緯33度46分14秒、東経132度44分40秒
   【祭神】月夜見尊
   【例祭】10月14日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】天平神護2年(766)従五位下神戸二烟
       貞観4年(862)従四位下
       貞観8年(866)正四位下
       貞観12年(870)正四位上

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「伊予神社」と称していた
   【社殿】本殿流造銅板葺
       幣殿・拝殿・社務所

   【境内社】

社名は一貫して伊予神社を称してきた。
社伝では、神戸郷御谷山に大山積神によって、天御中主神を祀る古社があった。後に国造によって、山の麓、朝日の面に天照大神を祀り、夕日の面に、月夜見尊を祀ったのが当社の創祀という。
愛媛命を祀る弥光井神社が、本殿の東にある泉水の跡にある。明治43年(1910年)に当社に併合された。同じころ、須佐之男命を祀る山本神社(祇園社)も併合された。


伊予神社

延喜式内名神神社。往昔、神戸郷御谷山に、大山積神によって天御中主神を祀る古社があり、後に国造が此処を初めとして山の麓の朝日の面に天照大神を、夕日の面に月夜見大神を奉斎し、是を弥邑の神(伊予村神)の創祀と伝えられている。
 古社殿は北面八丁の神域に亘り伊余国魂鎮座の一宮として延喜式名神大社として、神戸の附充があった。
 光孝の朝仁和3年、菅原道真公勅使として参向したと言う。

愛媛県神社庁



伊予神社

伊予市上野2485 2486番地にあって、神官は武市盛幸の兼務である。祭神は月夜見命・愛比売命である。境内末社には正一位時雨神社(水分神外三座)、弥光井神社(愛媛命)、山本神社(須佐之男命)、猿田彦神社(猿田彦大神)がある。当社は上古よりこの地(上野神戸郷)に鎮座せられた国家守護の一宮で、延喜式に載せられている式内大社である。祭神は当伊予の国の国魂神で昔から朝廷の尊崇が特にあつく、勅使の参向があったこと、神戸の備えがあったこと、神階にあずかったことなどが日本記・三代実録・その他の古史や当社に伝わる古い書類を見ても明らかである。また、当社は河野家累代の尊敬も深く、後世大洲藩主の祈願所となり、藩主の参拝はもとより祭祀料が年々献上された。昔は社地の広さが八町余歩(八f余)にもわたり、その風致は特にすぐれていた。社殿は北向きで前に川があって宮川と称した。この宮川に勅使橋があり、後で掛け足したものが現存している。本殿の東に泉水があり、真名井または弥光井という。この泉水には当社に関する深い由来があり、その遺跡に弥光井神社という小さい祠がある。当社の摂社で愛比売命を祭る社であったが、1910(明治43)年に境内末社として合併した。なお、このほかにも、後世になって土地開拓に際し、霊地として遺されていたものが、近辺の処々に散在していた。これによって、社地が如何に広大であったかを知ることができる。社殿や工作物も規模が壮大であったが、兵火その他の変遷にあって現状のようになったものである。明治初年村社に列せられ、1910(明治43)年及びその翌年には、境内末社として弥光井神社・正一位時雨神社・山本神社を合併した。建造物には本殿(流造り銅板葺)、中殿(唐破風付平屋造り瓦葺)、拝殿(唐破風付平屋造り瓦葺)、神輿庫などがある。神域は多くの老木がうっそうと茂り荘厳である。社宝には社号扁額一面・古代実録一巻・祈願所御書付一巻(大洲藩主)・棟札二(神殿再興延宝2年5月及び拝殿再興宝永5年4月)がある。
 境内末社の正一位時雨神社は水分神・雷神・高寵神・海童神を祭っている。当社は旧号を正一位八大龍王神社といって、古くから伊豫郡二四か村の祈雨社であった。1811(文化8)年には正一位の神階を授けられた。したがって、常に関係村民の崇敬深く、寛永・寛文・延宝の時代に大かんばつにあったが、当社の霊験によって救われたのをはじめ、いつの年でも祈ると必ず降雨があったので、ますます農家の信仰をあつくした。昔は行道山の山頂に祭っていたが1911(明治44)年伊豫神社の境内末社として奉還した。毎年夏祭(8月7日)や秋祭(9月18日)を行う。本殿(流造り銅板葺)と幣殿(流造り瓦葺)がある。

伊予市誌



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