河野氏の系譜を記した『予章記』には孝霊天皇の皇子の彦狭島命が反抗する民を制圧するために伊予国に派遣されたとあり、続けて皇子が現社地にあたる神崎庄に鎮座し、このことから当社を親王宮と呼ぶと記している。 社伝によれば、文治年間に伊予守源義経から崇敬され、その寄進により社殿が造営されたが文永年間にその社殿が消失したという。 境内の西北に「入らずの森」がある。鎌倉時代の作とみられる3基の五輪塔が置かれている。また明治30年(1897年)に宮内省が発掘調査したところ、経塚から宋代とされる磁器壷2個、青銅経筒6個などが出土した。 式内社伊予豆比古命神社の論社でもある。 |
伊予神社 当社は、第7代孝霊帝の第3皇子で、伊予国を治め極めて功績の高かった彦狭島命を主祭神とし、愛媛の総神愛比売命・伊予・久米両郡の開拓神伊予津彦命・同伊予津姫命、さらに、主祭神の御父日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、御母細姫命、また、第13代成務天皇の勅命により伊予の国造に任ぜられた速後神命(速後上命)を配神として祀る延喜式内名神大社である。 続日本紀、三代実録等の史書にも著述があり、古来より親王宮大明神として歴代朝廷の尊崇を受け、また、統治神として。武将・領主等からも崇敬されてきたが、特に、源義経が社殿を造営し、伊予の豪族河野家もまた、代々がこれを修理したと伝えられる。 江戸時代においても藩主は、参勤の上下に必ず奉幣して安全を祈願したとも伝えられている。まお、当地の古歌には、 「民草も豊かなりけり国の名の いよよと守る神の誓いに」とあるように、古代よりこの地方の氏神として崇められ、伊予一国を代表する国魂神として崇拝された旧愛媛県社である。 松前町教育委員会 社頭掲示板 |
伊予神社 五輪塔 五輪塔のあるこの一画は、往古、伊予神社の別当寺「真常寺」現晴光院の境内に位置し、「入らずの森」と畏敬さえてきたところで、かっては貴顕の尊霊を祀る廟地であったところと伝えられている。 この五輪石群は現在三基に纏められているが、大は、高さ約188cm・小は、高さ約152cmあり、幅はいずれも約70cmで、石材は砂岩系の軟質岩を加工したものである。全容を見ると、地水火風空の各輪がやや均衡・調和を欠き、倒壊し散逸した異石を組み合せた五輪塔であることが分かるが、その造立時代を始め由緒・沿革等の拠るべき史料はない。 また、風化も進んでおり刻字の有無等目ぼしいものは発見されていないが、明治30年(1897)2月、当時の宮内省属、青山盈氏の調査報告によると、地方色豊か、粗豪で力強さがあり造型手法からみて鎌倉後期の作であろうと推定されている。なお、この調査に付随し、地下60cm程を試掘したところ、青銅経筒六個中国宗代の磁器壺二個・刀子・布目瓦・土器和鏡等が出土した。これらの遺品は、五輪塔と共に昭和44年(1969)3月1日松前町有形文化財として指定されている。 松前町教育委員会 社頭掲示板 |
伊予神社 伊予の国に古くより祭られてきた社と伝えられ、延喜式内名神大社とされる。又親玉宮とも呼ばれてきた。平安時代には免田が付され、河野家の租にかかわる神社として河野各代の崇敬厚く天正年中には河野道直が社殿改めて造営したと伝わる。 明治になってから国幣社昇格の気運が昂り宮内省からも青山という技官が来社し禁足地の入らずの森の発掘調査をしたが掘り進んでそれ以上の発掘は自粛したという。その時の出土物は松前町文化財の第一号に指定され伝わっている。 別に伊豫親王、藤原吉子桓武天皇夫人、藤原宗成の三柱が祭られており、当社との深い関係が伺われ、当社にとっては重要なことである。元県社。 愛媛県神社庁 |
伊予神社 伊豫神社(いよじんじや) 愛媛県伊予郡松前町神崎。旧県社。彦狭嶋命・日本根子彦太瓊命・皇后細姫命・愛日売命・伊豫津彦命・伊豫津姫命・速後神命を祀る。祭神については異説があり、一に伊与主命とする。霊宮・親王宮・伊豫親王宮・今岡宮・伊予村大明神、いま俗に「しんのぶ」とも呼ばれる。天平神護2年(766)従五位下を授け神戸二烟をあて、貞観4年(862)従五位上伊豫村神に従四位下を授け、同8年正四位下を加え、同12年正四位上に叙され、延喜の制、名神大社に列せられる。 中世、豪族河野氏の宗廟とされ信仰篤かったといわれる。社蔵の五輸塔三基・経筒六個・磁器壷二個はいずれも松前町指定の有形文化財である。摂末社は境内に山之神社(大山咋命・和霊神)・猿田比古社(猿田彦)・厳島神社(市杵島姫命他)・竈神社(奥津比古命他)、境外に二社あり。一説に天平神護2年(766)の叙位は温泉郡石井村の伊豫豆比子命神社とし、式内社も後者とするも確証をかく。例祭10月14日。 神社辞典 |