仲哀天皇が神功皇后と御一緒に、伊予ノ湯に行幸され、沙庭を立てて天神の勅を請奉つたので、沙庭神社即ち伊佐爾波神社と称したという。 現在の祭神は八幡信仰によるもので本来の伊佐爾波神は地主神であろう。 南北朝時代から明治初年にかけては、伊佐爾波岡に勧請されていて、河野氏や松山歴代藩主の崇敬が篤かつた湯月八幡宮の名が高く、伊佐爾波神社の名は埋もれていた。 |
伊佐爾波神社 松山藩主・松平定永公(第三代)が、時の将軍に流鏑馬を命ぜられ、八幡様に祈念して成功した、お礼として建立した。京都の石清水八幡、大分の宇佐八幡とあわせ、日本に三つしかない「八幡造り」の社殿は国指定重要文化財である。切妻造り、桧皮葺き、流れ造りの社殿二棟が正面に向拝のある外陣と内陣が屋根の軒先中央で密着しているのが「八幡造り」の特色である。社殿の完成は寛文7年(1667)といわれている。 社頭掲示板 |
伊佐爾波神社 伊佐爾波神社 附 末社 二棟 石燈籠 二基 棟札 一枚 重要文化財(建造物) 昭和31年6月28日指定 祭神は仲哀天皇、応神天皇、神功皇后、三柱姫大神で延喜式内社である。社伝によると仲哀天皇、神功皇后が道後温泉に御来浴の行在所跡に建てられた神社である。 松平松山藩第三代藩主の松平定長(1640−74)が時の将軍に流鏑馬を命ぜられ、当社に必中を祈願して成就したので現在の社殿を造立したと伝えられる。 本社は正面から見てまず楼門があり、そこから四囲に廻廊をめぐらし、その中に廊下、申殿、本殿を配置している。本殿は内陣と外陣とにわかれ、屋根は檜皮葺、平入りの切妻造りで前後に並び、建物中央の雨樋で軒先を接している。この様式は京都府の石清水八幡宮、大分県の宇佐神宮と本社にしかない八幡造りの特色である。 社頭掲示板 |
伊佐爾波神社 1.御 祭 神 神功皇后(じんぐうこうごう)、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)、応神天皇(おうじんてんのう) 三柱姫大神(みはしらのひめおおかみ) 2.沿 革 伊佐爾波神社の創建について詳細は不明ですが、神功皇后・仲哀天皇御来湯の際の行宮跡に建てられたといわれ、すでに延喜年間につくられた延喜式に載っている古社で1000年以上前から信仰を集めていたことが窺えます。一時期は湯月八幡宮とも、さらに道後八幡とも呼ばれました。 この伊佐爾波神社も当初は道後公園山麓に御鎮座していたと推定され、建武年間(14紀前半)頃、河野氏が湯月城築城に際して今の地に遷し、道後七郡(野間、風速、和気、温泉、久米、伊予、浮穴)総守護と称えました。 その後、加藤嘉明が松山城の固めとして八社八幡を定めたとき、一番社として武運長久の祈願所と定め久米郡井合の土地百石を神社の社領として寄進されました。 現在の御社殿は江戸時代に入り江戸城で弓の競射を命じられた松山藩主松平定長公が八幡様に必中を祈願し、それが成就したお礼に建て替えられたもので、寛文4(1664)年6月に着手、大工697人、延べ人数69,017人を要し寛文7(1667)年5月15日に竣工し、しめやかなうちにも華やかに遷宮式が挙行されたと言われています。 京都の石清水八幡宮を模したと言われ、大分の宇佐神宮と並び全国に三例しかない整った八幡造りの社殿で、昭和31年6月本殿が国の重要文化財に指定、昭和42年6月全体が追加指定を受けました。 3.伝 承 松山藩主三代目の松平隠岐守定長公は、寛文2(1662)年の春、江戸城で弓の競射を命じられました。定長公はかねてから弓の名手として誉れが高く、射損じては面目丸つぶれとあって、湯月八幡宮に「石清水八幡宮と同じ建物をお建て致しますので金的を射させてください。」と祈願をされました。 ある夜、夢枕に八幡様がお立ちになって「私の指図通りにしなさい。必ず射止めるであろう。」とお告げになりました。 当日になって、諸大名居並ぶ中、定長公は弓に矢をつがえ、きりりと引き絞って八幡様を祈念しました。すると金の鳩が目の前を飛びました。これこそ八幡様のお指図と弓を放つと見事金的に命中しました。 定長公は面目をほどこし、祈願された通り飛騨の工匠を招いて八幡造りの社殿を建立しました。寛文7年のことです。 社頭掲示板 |