出雲崗神社は当初より此の地に鎮座。出雲の神を祀った岡(冠山)の神社の意味だと思われる。 湯神社は、現社地より東二町の古く温泉が湧出し、鷺が痛んだ脚を浸して治療してゐたとの伝承がある鷺谷(現 松山市道後鷺谷町)に鎮座していた。 湯神社は、景行天皇が皇后・八坂入姫命とともに当地に行幸した際、道後温泉の守護神として、鷺谷の大禅寺の前に創建されたと伝えられる。 天武天皇13年(685)大地震のため、鷺谷の湯本が浬没した際、現在の冠山にあつた出雲崗神社の境内に湯神社を奉遷。 暫くして両社を合して、「湯神社」と総称するようになり、主客が逆になつた。 |
湯神社 祭神は大己貴命、少彦名命の二柱で、例祭は10月6日である。 当社は延喜式内社でその由緒は古く、もと鶯谷に鎮座したが、社名埋没の際に現在地冠山の出雲岡神社の祭神、須佐之男命、稲田姫が祀られる境内に移され、いつしか合祀して四社大明神ともいった、また、伊佐爾波神社より西にあるので西宮とも称した、社伝によると欽明天皇は道後御幸に際して神殿を新築されたといい、以後国司あるいは領主らの崇敬を受けた。 正月お初子の神事は世にきこえている。 社頭掲示板 |
湯神社 【主 祭 神】 大己貴命(大国主命)、少彦名命 【配 神】 相殿(出雲崗神社)素盞鳴命、稲田姫命 【沿 革】 湯神社は人皇十二代景行天皇の御勅建で、大己貴命・少彦名命の二神を奉斎する名社です。創建当時は鷺谷の大禅寺の前にあったといわれていますが、地震のため温泉埋没の際、現在の冠山の出雲崗神社の境内に奉遷し、合祀して四社大明神と称し、舒明天皇行幸のとき、勅により神殿を新築したと旧記に記されています。国司領主の尊崇篤く、神田、幣帛の奉献がありました。 又御相殿の出雲崗神社は、素盞鳴命・稲田姫命を奉斎し、人皇7代孝霊天皇の御創建で、湯神社と共に延喜式内の名社ですが、一時期右二社を御相殿に奉戴し、宝永5年に藩主の命で、境内に別社となりましたが、明治4年再び相殿となりました。 その後、時代の変革により冠山が整備され、湯神社も新築されました。 【境内社】 境内社の児守社は、往古、松山城東麓にありましたが、築城の際、湯神社の末社河野霊神に合祀されました。御祭神河野通広は時宗の開祖一遍上人の父であり、遊行法師が回国の時には必ず参拝を行い、その都度領主は社殿を造営整備したといいます。鎮疫神は、安政六年悪病流行につき鎮疫のために勧請されました。 そのほか中嶋神社があります。四国四縣の菓子業者が菓祖田道間守命を奉斎し創建されました。 【特殊神事】 湯神社では、古くから初子祭が毎年旧暦十一月の子の日に盛大に行なわれ当日は参拝者で大変賑わいました。(現在は一月の第二日曜日に行われています。)起源は大己貴命が鼠に救われたという「古事記」の古伝説から、鼠を十二支の子に結びつけた事に基づいたとも云われています。また社殿建立の日、修理の始まる日なども、すべてこの由緒によって子の日を選んで施行されました。 また源泉が地震で埋没して止まった時、湯神社の神前で神楽が奏せられ、温泉の再湧出の祈願が繰り返され、さらに温泉の復興を感謝する為に湯祈祷祭が盛大に行われました。現在、この湯祈祷は道後温泉祭に形を変え、毎年3月19〜21日に行なわれ、観光松山の春の先駆けとなっています。 公式HP |
湯神社 延喜神名式内の神社で上古は鷺谷に鎮座あったが、地震のため温泉埋没の際、現在の冠山の出雲崗神社の境内に奉遷し合祀して四社大明神と称し、舒明天皇行幸のとき勅により神殿を新築したと旧記に記されている。 相殿出雲崗神社も式内社であったが、湯神社と相殿となり、宝永5年に藩主の命で境内に別社となったが、明治4年再び相殿となった。その後、時代の変革により冠山が整備され、湯神社も新築された。 児守社は往古、松山城東麓にあったが、築城の際、湯神社の末社河野霊神に合祀した。 鎮疫神は、安政6年悪病流行につき鎮疫のため勧請した。 愛媛県神社庁 |