御村別の祖・景行天皇の皇子武国凝別、および別王の祖・日本武尊の御子十城別王の宮居があった場所という。 後、河野氏の崇敬により、河野氏の氏神である大山祇神を合祀し、阿沼美三島大明神と称していた。 天保4年(1833)当社前の御幸橋を修理しようとして氏子多数が川を俊えていた際、表面に「阿沼美宮」の社名、裏面に延文5年(1360)の年号を彫刻した石額が発見された。 |
阿沼美神社 阿沼美神社の由緒 祭神 大山祇神 月讀神 高おかみ神 雷神 例大祭 10月4日 阿沼美神社社伝記によると12代景行天皇の皇子武国凝別(御村別の祖)日本武尊の御子十城別王(別王の祖)の宮居された所と伝えられており地名を大内小字を宮内という 別氏の子孫は阿沼美の神を奉斎して深く尊崇を尽くし40代天武天皇45代聖武天皇50代桓武天皇52代嵯峨天皇75代崇徳院等は幣帛を奉り勅願により宮殿を再造営した 別氏の没落後河野氏は三島の神を合わせ祭り「阿沼美三島大明神」と号して累代崇啓を尽くし神領を321町6反を寄進した さらに河野道直は新たに社殿を築き厳命して「新宮」の二字を加え「阿沼美三島新宮大明神」と称え一族の潮見山城主大内伊賀守越智信泰を大宮司として祭事を掌らせた 河野氏滅亡後「三島新宮」とのみ称するようになっていたが天明二年本殿が大破して再建した際屋根裏から文録年度の「阿沼美三島新宮大名神」と記した古棟板が発見され又天保4年9月6日には御幸橋の地下から「阿沼美宮」と刻した延文年間の石額が出土した翌天保5年藩命を奉じて天朝に奏し「阿沼美神社」の旧号に復した 延喜式神名帳に伊予国温泉郡「阿沼美名神大」又同臨時祭式に名神祭(285座)「阿沼美神社一座」(伊予国)とあるのは当社であるといわれている 社頭石碑 |
阿沼美神社 延喜式神名帖(平安時代)に伊予国温泉郡阿沼美神名神大とある社と言われています。 中世、河野氏が三島の神を合祀して阿沼美三島大明神と称え、一族の大内氏に祭事を司らした。 河野氏滅亡後、三島新宮と称したが(鳥居の額にその名が見られます)、延文年間の石額、文禄年度の古棟札等により、その記載の社名に基づき阿沼美神社としました。 愛媛県神社庁 |