阿沼美神社
あぬみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】阿治美神社(名神大) 伊予国 温泉郡鎮座
          (旧地)阿沼美神社【旧地】

   【現社名】阿沼美神社
   【住所】愛媛県松山市味酒町 3-1-1
       北緯33度50分46秒、東経132度45分23秒
   【祭神】大山積命 高おかみ神 雷神 味耳命
       (合祀)面足神 惶根神 神八井耳尊
       天鈿女命『伊予州二十四社考』

   【例祭】10月5日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】天智天皇3年(664)創建
       慶長7年(1602)加藤嘉明松山城築城で現在地に遷
       元和5年(1619〉御供料として米七石寄進
       慶安3年(1650)社殿再建
       元禄10年(1697)松平定直が米百石神馬一頭献
       元禄14年(1701)社殿改造
       享保6年(1712)松平定英米百石寄進
       明治3年県社に列し旧称に復
       昭和20年松山空襲で社殿炎上

   【関係氏族】久米氏
   【鎮座地】古来松山城のある勝山(標高132m)の頂に鎭座
        慶長7−8年(1602−3)加藤嘉明松山城築城で現在地に遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「勝山三島大明神」と称していた
   【社殿】本殿流造鉄板葺コンクリート造
       幣殿・拝殿・神樂殿・社務所・神庫・神饌殿

   【境内社】勝山八幡神社・伊予夷子神社・稲荷神社・金刀比羅神社・味酒天満神社
   【別当】曹洞宗江勝山雲祥寺

社伝によれば、越智守興が天智天皇3年(664年)に創建したとされる。味耳命の後裔である久米氏の氏神でもあったとされる。
古来松山城のある勝山(標高132m)の頂に鎭座していた。
慶長7年(1602)、加藤嘉明が勝山に新に松山城を築いた時、神社を勝山から、城西の平地にある現在地に遷座した。
阿沼美の名の由来としては
@.阿沼=葦津、美=姫 →鹿葦津姫(かあしつひめ)
A.天鈿女命(あまのうずめのみこと)
B.勝山と江戸山の間は大沼であり、明神の神詠に『阿那美クシ沼哉』とあったため
C.アジミを熱水と解釈し、道後温泉のある当地方の神
などの説がある。
『明治神社誌料』によれば、河野氏歴代の崇敬社で、源頼朝は社領7石を寄進した。しかし、天正年間(1573〜93)福島正則が領主となると社領は没収され、さらに慶長6年(1601)社家の某女が一家の死滅に心狂して社殿に火を放ったため、神宝や古記は悉く焼失してしまったという。


阿沼美神社

社伝によれば、天智天皇3年(664)、越智守興の創建によるといわれ、祭神は、大山積命(オオヤマズミノミコト)・高おかみ神(タカオカミノカミ)・雷神(イカズチノカミ)・味耳命(ウマシミミノミコト)で、面足神(オモダルノガミ)・惶根神(カシコネノカミ)・神八井耳尊(カムヤイミミノミコト)を合わせ祀り、味耳命を祖とするクマビトの氏神でもある。社格は「延喜式神名帳」に記載されていた温泉部四座のうちの大社という県内でも屈指の古社である。もともとは勝山(城山)の頂上にあり「勝山三島大明神」ととなえられていたが、慶長7年(1602)、加藤嘉明が勝山に築城する際に現在地に移した。そのときのことで、次のような話が伝えられている。嘉明に築城の普請奉行を命じられた重臣の足立重信が勝山を実測した際、山頂の一隅に小社がある。これこそ由緒ある勝山三神大明神なのだが、なんともさびれ果てていた。それは、福島正則がこの地を領したとき、社領のことごとくを没収、さらにその後、放火にあって、社殿は累代の診器、宝物、縁起などとともに焼失した。そこで氏子の有志によってささやかな仮殿が営まれているに過ぎなかった。その社(やしろ)を見た重信が、近くでたきぎを拾っていた老人を呼び止めて尋ねると、「勝山八幡のお社です」と答えた。勝山三島大明神の末社として八幡宮が合祀されであったのでそういったのだろうが、武士に突然の声を掛けられてうろたえたのか、言葉が不明瞭だった。そのため重信ば、「勝たず八幡」と間き違える。「城を築くのに〃勝たず〃というのは不吉でほないか。さっそく取りこわすがよい」というと、一緒にいた普請奉行助役の山下八兵衛が反対した。「不吉な社号のようだが、敵がこの城に向かって攻めても、勝たすと考えれば、かえって吉相ではないか。当山に鎮座する神をみだりに取りごわすことがあってば、かえって神罰のおそれあり」というのだ。このため、山頂の社は、おごそかに祭事を行ったあと山麓の地に遷座したのだという。この話の真偽はともかくとして、山を下りた勝山三島大明神は、その地が味酒郷味酒村だったことから「味酒神社」と改称された。以後、加藤嘉明に続いで松山城主となった蒲生忠知、松平定行以下歴代の松山藩主の厚い崇敬を受けて、社禄、御供料の寄進が続いた。慶安3年(1650)には社殿が再建されている。当時三つの行宮所は、一つは堀之内の「西ノ馬場」で、ここは松山城の裏鬼門といわれた。他の一つは城の東山麓杉谷にあり、表鬼門として、天下泰平、伊予国の安全を祈とうする所とした。また、氏子は東が杉谷、勝山より南は山崎、萱町、辻堂に至り、西は江戸村より北は山越に及んだ。その人口は15000余人、町数は44、社領に南北味酒村があった

社頭掲示板



阿沼美神社

この地方の総鎮守として、往古勝山の峰(現在の城山)に鎮座していた。
 久米氏の氏神で、延喜式内名神大社である。
 その後、越智氏が国司となり、越智氏の氏神も祀る。
 慶長年間加藤嘉明により現在地に移遷される。
 味酒神社と呼ばれていたこともある。
 藩制時代、松山藩の崇敬社であった。旧県社。
 それぞれの時代の統治者の尊崇をうける。

愛媛県神社庁



阿沼美神社

阿沼美神社(あぬみじんじゃ)
松山市味酒町。旧県社。大山積命・雷神・高寵神を祀る。阿沼美は一本に阿治美に作る。阿治美は熱水すなはち温泉の義。当社久しく浬没してその所在をしらなかったが、和気郡平田村に一社あり社前の川底より阿沼美宮と刻した石額を得た。裏而に延文5年(1360)とあり、よって天保5年(1834)この社を阿沼美神社とした。けれども神名帳に温泉郡とあるに、和気郡より掘り出した額は不審であるとして、いま味酒村の味酒神社を阿沼美神社と決めたという。よって延喜の制、名神大社に列した社とするも、なお考究を要する。当社は勝山三島大明神と呼ばれ、勝山の西麓にあつた。慶長7年(1603)加藤嘉明は松山城を勝山に移すにあたり、現社地に奉遷、味酒神社と改めた。のち藩主松平氏の崇敬は駕かった。例祭10月6日。

社頭掲示板



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