国津比古命神社
くにつひこのみことじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】国津比古命神社 伊予国 風早郡鎮座

   【現社名】国津比古命神社
   【住所】愛媛県松山市八反地甲 185
       北緯33度58分16秒、東経132度47分49秒
   【祭神】天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
       (配祀)宇麻志麻治命 物部阿佐利命 誉田別命

   【例祭】4月4日 春季例大祭 10月10日 秋季例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】応神朝のころ創建
       天正年間(1573−91) 戦火焼失
       享保年中(1716−35)現社名に復
       寛保元年(1741)松山藩主松平定裔参拝
       明治4年郷社
       明治29年県社

   【関係氏族】物部氏・風早氏
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「頭日八幡宮」と称していた
   【社殿】本殿神明造銅板葺
       幣殿・拝殿・神樂殿・社務所・齋館・手水舎・神庫・神門

   【境内社】

丘陵地の上,向かい合わせに国津比古命神社,櫛玉比売命神社の神殿がある。
櫛玉比売命神社と合わせて風早宮大氏神と総称し、社伝によれば、古くは風早の国魂を祀っていたとされる。
応神朝のころ、饒速日命の裔物部連伊香色男命四世の孫阿佐利が風早国造となり、当社を創建し、神戸を定めた。
石段の上から御輿を放り投げる手荒い神事で有名な神社。
御輿を落として壊すのは、神事で一度使った祭具を使い捨てるのを御輿に代表させる意味があり、来年、新し御輿を造るために祭りのしめくくりとして御輿を壊す。


由緒

風早宮大氏神延喜式内社國津比古命神社櫛玉比賣命神社略縁起
式内社とは、延喜年間(901年−922年)に編纂された「延喜式」『神名帳』に記録されている神社のことをいいます。全国に2861社 (3132座) あり、愛媛県内には当社を含めて24社あります。風早 (風速) の名称は承平年間(931年−938年) につくられた「和名類従抄」『国郡部』に初めて見られます。この地は「國造」である『物部阿佐利』により開拓され、支配されていました。この物部阿佐利命の祖神をお祭しているのが「國津比古命神社」です。
祭神 天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊 (以下、『櫛玉饒速日尊』といいます。) 相神 宇摩志麻治命 物部阿佐利命 誉田別尊 (応神天皇) そして櫛玉饒速日尊の妃神 (櫛玉の比賣) をお祭しているのが「櫛玉比賣命神社」です。祭神 御炊屋姫命 天道姫命 神社創設の時期は明確ではありませんが、@式内社であることA歴史地理的条件B環境風土の形態から考えて、いまから 1500年以上前と考えられます。
國津比古命神社 國津比古命神社は応神天皇の時代に物部阿佐利が國造に任命され、彼の祖神である櫛玉饒速日尊と宇摩志麻治命(櫛玉饒速日尊の子)をお祭りしたことに始まります。社号は、初め『櫛玉饒速日命神社』でしたが、物部阿佐利命を合祀して國津比古命神社と名を改めました。後に誉田別尊を合祀し『頭日八幡宮』と再び改めましたが、享保年間(約 270年前) に國津比古命神社と旧号にもどりました。天正年間(1573年−1591年) 、戦火のため社殿・宝物を焼失しましたが、河野家が社殿を建築し、現在にいたっております。明治 4年に社格が『郷社』になり、同29年『県社』に昇格しました。昭和26年 『八脚門』県指定有形文化財 。 昭和43年 中殿・拝殿改築。 昭和60年 社殿屋根葺替・境内地拡張補強。
櫛玉比賣命神社
國津比古命神社の主祭神である櫛玉饒速日尊の妃神をお祭りしているのが、向かい側の櫛玉比賣命神社です。社号は『祓座大明神』ともいわれました。寛永年間(約360年前) 官命により、南方の小山の頂より現在の地に移されました。古来、地方豪族の氏神として崇敬され、明治29年に社格が『郷社』になりました。
史跡 境内 前方後円墳
昭和43年 中殿 改築。 昭和60年 社殿改築・境内地拡張補強。ご両社はご夫婦なかよく向かいあってお祭りされ,私どもをやさしく見守っていただいております。これが家族円満,夫婦円満(一願成就)の神社であるといわれる所以です。
祓い
人々は春には豊かな実りを祈り,秋には感謝の誠を捧げるために祭をします。祭をする者は「きよらか」でなければならないので,お祓いなどをして心身を清めます。
祭に使う道具なども新調します。(当社の場合は神輿を新調します。)
祈り
日本書紀の『神武天皇紀』に「顕斎」の記事が書かれております。時に道臣命に勅したまはく,いま高皇産霊命を以ちて,朕,親ら顕斎を作さむ。汝を以ちて,斎主となして,授くるに,厳姫の號を以てせむと。顕斎とは「そこに神様がおられるようにお仕えすること」です。櫛玉饒速日尊のご神徳は「一願成就」です。國津社の神輿の前で祭を行っている時に櫛玉社のおしのびの渡御(宵の明星の神事)があります。人々の幸福(一願成就)を祈ります。
神人一体
なぜ,神輿を壊してしまうのでしょうか。@祭の物忌を解くためであります(解斎の行為)A祭具の清浄さを保つためであります(神威の更新)@祭の期間は「きよらかな期間」なので,それの終わりを告げる行事としてこれがある。A当社の場合,毎年神輿を新調しますが、伊勢神宮では平成5年10月に式年遷宮(20年に一度すべてを作りかえる)が斎行されます。
感謝
米を作るということを通じて,自然の恵みに感謝する。
結び(よりよく生きる)
@好き,嫌いなく食べる(元気な体)。げんきの「き」の字は「氣」・「気」?生活の中から米をしめ(メ)出していませんか?A言動を正す(正しい言葉づかい)言霊(ことだま・・・言葉の魂)B豊かな自然とご先祖様に生かされていることに感謝する
神詣で(風早の火事祭)
@総論 俗に、半鐘と太鼓をたたきながら、賑やかにだんじりをかくので、「かじまつり」などといわれておりますが、『火事祭』は「ひのことのまつり」と読みます。そのいわれは國津比古命神社にお祭りされている神様の名前に関係があります。お祭りされている神様は『天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(天火明命)』と申します。なぜ「ひのことのまつり」なのでしょう。A別火 秋祭の始まる3日前から神職は斎館に参籠して,潔斎を行います。調理に使う火は鑚りおこします。また,秋季動座祭においては此の鑚火により調理した「鮒のいずみや」と「一夜酒」が特殊神饌としてお供えされます。B動座祭(宵の明星・・・顕斎の再現)日本書紀の『神武天皇紀』に「顕斎」の記事が書かれております。当社の動座祭には,この顕斎の神事の再現がなされます。動座祭に限って女神である『櫛玉比賣命神社』から祭祀が始まります。御動座は祭式次第の最後に斎行します。これに対し,男神である『國津比古命神社』では御動座は祭式次第の最初に斎行し神輿の前で祭祀をします。ちょうどその御動座祭の時(祝詞奏上の時)『櫛玉の比売』の『宵の明星』の渡御(おしのびの渡御)が斎行されます。これが『顕斎の神事』の概略であります。C解斎の神事 各地区での渡御を終えた四体の神輿は神社にかえり,大勢の氏子崇敬者の見守るなか四十段の石段のうえから真っ逆さまに投げ落とし分霊が表れるまで壊されます。なぜ,神輿を壊してしまうのでしょうか。@祭の物忌を解くためであります(解斎の行為)A祭具の清浄さを保つためであります(神威の更新)D一願成就 私どもは『天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(天火明命)』の御神徳を一願成就と説いております。『生きとしけるもの』はすべて『火』のおかげをこうむっております。一願成就の「一願」とは「一つの願事」が叶うということよりも,それぞれの人の願事がかなうことによって「世の中の人がみんな幸福になること」であります。これが「ひのことのまつり」の所以であります。
風早の秋祭 「ひのことのまつり」 俗に,半鐘と太鼓をたたきながら,賑やかにだんじりをかくので,「かじまつり」などといわれておりますが,『火事祭』は「ひのことのまつり」と読みます。@そのいわれは國津比古命神社にお祭りされている神様の名前に関係あります。お祭りされている神様は『天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(天火明命)』と申します。なぜ「ひのことのまつり」なのでしょう。A動座祭(宵の明星・・・顕斎の姿)「動座祭」は分霊を本殿から神輿にお移しするお祭です。日本書紀の『神武天皇紀』に「顕斎」の記事が書かれております。時に道臣命に勅したまはく,いま高皇産霊命を以ちて,朕,親ら顕斎を作さむ。汝を以ちて,斎主となして,授くるに,厳姫の號を以てせむと。動座祭には,この顕斎の「姿」があります。動座祭に限って女神である『櫛玉比賣命神社』から祭が始まります。櫛玉社のご動座は祭式次第の最後に行います。これに対し,男神である『國津比古命神社』ではご動座を祭式次第の最初にします。國津社のご動座のおり(祝詞奏上の頃),『櫛玉の比売』の『宵の明星』の渡御(おしのびの渡御)が始まります。これが『顕斎の神事』の概略であります。B解斎の神事 各地区での渡御を終えた四体の神輿は神社にかえり,大勢の氏子崇敬者の見守るなか四十段の石段のうえから真っ逆さまに投げ落とし分霊が表れるまで壊されます。なぜ,神輿を壊してしまうのでしょうか。@祭の物忌を解くためであります(解斎の行為)A祭具の清浄さを保つためであります(神威の更新)C一願成就 私どもは『天火明命』の御神徳を一願成就と説いております。『生きとし生けるもの』はすべて『日(火)』のおかげをこうむっております。一願成就とは,一つの願事が叶うという意味ではなく,人々の願事が叶うことによって「世の中の人がみんな幸福になること」であります。これが「ひのことのまつり」のいわれであります。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




国津比古命神社

当神社は応神天皇の御代(皇紀930(西暦270)〜970)に勅令を奉じ物部阿佐理命が風早の国造となり、その祖神天照国照彦火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこほのあかりくしだまにぎはやひのみこと)及び宇摩志麻治命(うましまじのみこと)を國津比古命神社(くにつひこみこと)、妃神天道姫命(あめのみちひめのみこと)及び御炊屋姫命(みかしじやひめのみこと)を櫛玉比責命神社(くしだまひめのみこと)に奉齋せられ、公の崇敬厚く醍醐天皇の御代の延喜年間(皇紀1561(西暦901)〜1583)に編纂された延書式内神明帳に「風早郡二座國津比古命神社、櫛玉比賣命神社」とあり、当時の官国幣社に列せられた由緒深い古社です。
中昔までは実に壮大な御構えの神社であったが、天正年間(皇紀2233〜2252)度々の兵乱により廃頽し社殿宝物を焼失しましたが、河野家が社殿を建築した。寛保元年に松平隠岐守は、毎年代官をして参拝する制度を定められました。
國津比古命神社は、初め「櫛玉饒速日尊神社」と称し、阿佐理命を合祀して現社名に、誉田別尊(応神天皇)を合祀し「頭日八幡宮」と改称しましたが、中御門天皇の亨保年中(皇紀2371−2376)に旧号に復しました。
饒速日尊は、天照皇大神の御子天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の御長子で、大和に天降りこの地を中心として社会の開発に着手せられ、天孫の天下経営の大業に協力せられて大義名分を明らかにし天下統一に偉大な功績を顕されました。宇摩志麻治命は父命の御志を継がれて地方開発に御尽瘁せられたのです。このように御親子命ともに尊い神様で、殖産農工、除災招福の守神であらせられます。
玉比賣命神社は、中古は祓座大明神(はらいにます)とも称せられましたが、後水尾天皇の寛永年間(皇紀二二七一〜二二八九)に官命を受けて南方の小山の頂きより現在の地に奉還され、中御門天皇の亨保年中に旧号に復しました。
天道姫命は大国主命(大己貴命;おほなむち)の御子であられ、御炊屋姫命(登美夜毘責とも称す) は大和国鳥見の豪族の長髄彦(登美毘古;とみのびこ)の妹君で、宇摩志麻治命の母君にあらせられます。古来、地方豪族の氏神として代々崇敬せられ、明治29年に社格が「県社」(國津社)・「郷社」(櫛玉社)となりました。両社は夫婦仲良く向かい合ってお齋りされ、我々を護って下さっています。尚、櫛玉社拝殿前方の小山は前方後円墳の一部であります。

社頭掲示板



国津比古命神社

当社は延喜式神名帳に所載の古社で、文徳天皇仁寿元年正六位上を授与。
 応神天皇の御宇に物部阿佐利が風早の国造に任じられて、饒速日命、宇麻志摩遅命を祭祀せられた。
 物部氏、風早氏は氏神として尊崇し、神田、神器を奉献され、社名は初め櫛玉饒速日命神社と称したが、阿佐利命を合祀して国津比古命神社と改めた。
 後に頭日八幡宮と改称したが、中御門天皇の享保年中に旧号に復した。
 天正年間に戦火のため社殿宝物を焼失したが、河野家が社殿を建築した。
 寛保元年に松平隠岐守は、毎年代官をして参拝する制度を定められた。

愛媛県神社庁



国津比古命神社

國津比古命神社のいわれ
国津比古命神社は古墳の上にお祭りされています。昔、風早の郷に魂を感じた人たちがいました。その人たちはこの魂を国魂として素朴にお祭りされていました。
やがて、日本の国をひとつにまとめるときがきました。大和朝廷は氏姓制度のなかに国造などを定めました。
風早の郷には物部阿佐利という方があてられ、この方は、もともと風早にまつられていた国魂を敬い、なおかつ、
自分の祖先である神様をも合わせてあまつりし、櫛玉饒速日命神社と呼ばれるようになりました。後に、物部阿佐利命をいっしょにおまつりし、国津比古命神社と元の社号になりました。頭日八幡宮かぐひはちまんぐうと呼ばれた時期もありましたが、享保年間(1716〜36)に、元の社名にもどりました。物部氏・風早氏の氏神として発展し、河野家の崇拝厚く、戦火により焼失した社殿が再建されました。
 櫛玉比賣命神社のいわれ
国津比古命神社の主神であるクシダマニギハヤヒノミコトの后神(奥様)をおまつりしているのが櫛玉比売命神社です。
櫛玉は、ニギハヤヒノミコトを形容することばです。その方の比売神ですから「櫛玉の比売の命の神社」です。
風早の先人が国津比古命神社にこの郷の国魂をまつり、のちに、物部阿佐利命がこの国魂も敬い、合わせて祖神であるニギハヤヒノミコトをおまつりしたおり、現在地より南方の小山に后神をおまつりしたと考えられます。
社殿によると、寛永年間(1611〜29)に前方後円墳のそばに遷されました。このことから考えると、動座祭からの一連の神事は最大限ここまでさかのぼることができます。櫛玉比売命神社は「祓座大明神はらいにますだいみょうじん」ともいわれました。
これは当社が国津比古命神社の祓いをつかさどったなごりだと考えられます。動座祭に限り、櫛玉比売命神社から始まるのもこのためです。
享保年間、元の社名にもどりました。特殊神事として動座祭のあと「宵の明星」があります。

社頭掲示板



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